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おれは僕に私を書かせる

ライター講座で受講生たちに作文してもらう。すると、「お見事!」とまではいえなくとも、好感のもてる文章を書いてくるひとはたくさんいる。そしてその大半が女性陣だ。肩に余計な力を入れず、するっとした筆致の、読み手を疲れさせない文章を、書いてくる。

いっぽう、男性陣の文章はたいてい窮屈で、まわりくどく、つまらない装飾でからだを重くし、読み手をへとへとにさせる。きっと若いライターさんでも、その傾向はあると思う。

これって別に、男性脳とか女性脳とかのあぶなっかしい議論ではなく、単に主語の問題じゃないかと思っている。つまり、おれやわたしやぼくやわたくしの問題なんだと。

講座で課題文を書くとき、ほとんどの男性陣は主語を「私」にする。これはびっくりするくらいの割合で、「私」だ。きっとそれが社会人としての、いっぱしの大人としての、オフィシャルな何某としての、あるべき姿だと教えられてきたのだろう。

けれども日常の会話において、彼らが主語に「私」を使う機会なんて、ほとんどないはずだ。どんなおじさんになっても、どんなにまじめな人でも、気のおけない日常の主語、家族や友人と過ごすときの主語は「おれ」や「ぼく」である。

要するにこれ、完全なる言文不一致、しょっぱなからのボタンの掛け違えなのだ。

文章を書こうと意識した瞬間、いきなり「私」の仮面をかぶる男たち。慣れ親しんだ「ぼく」ではなく、どこかの誰かを模倣した「私」のことばを組み立てようとする男たち。肩に力が入るのも、虚飾のべらべらを並べてしまうのも、当然だろう。

一方、女性陣にとっての主語はふだんから「わたし」であり、文章に向かうときの主語も「私」であり、いつもとおんなじ「ワタシ」のまま最初の1行を書き、文章の中に入っていくことができる。

ここに問題がないわけではない。彼女たちは、半径5メートルの風景を描くことは得意でも、高いところから俯瞰した全体像を描くのに苦労することが多い。エッセイ的な文章はさらさら書けるのに、論文調の文章ではとたんに筆が重くなる。ひょっとするとこれは、「わたし」と「私」の分離のむずかしさに起因しているのかもしれない。

ということで。

文章が苦手な男性陣は、いちど主語を「ぼく」にしてみるといいと思います。そしてどうしても「私」にしたければ、ぜんぶ書き終えたあとで「ぼく」を「私」に一括変換してみましょう。

女性陣の場合は、これは「私」であって「わたし」じゃないんだ、ということを頭の片隅においておくといいのかもしれません。いや、このへんは「わたし」を主語にしゃべったことがないのであてずっぽうですが。

いずれにせよ「私」や「わたし」、「ぼく」や「おれ」の主語を選択するときは、これから自分がどんな嘘をつこうとしているのか、そこで何者を演じようとしているのか、もっともっと自覚的になるべきだと思います。

そんな「わたし」をかんぺきにコントロールできるひとを、たぶん作家と呼ぶのでしょう。