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年齢について考えること。

ぼくは19歳の自分が、とても好きだった。

こうして告白するといまさら怒られる話なのだろうけど、法律的には20歳から認められているはずのお酒や煙草について、19歳のぼくが手を伸ばしても誰も咎めることはなかった。いちおうは大学生という肩書きを得て、アルバイトでのちの初任給を上回るくらいお金を稼いで、将来のことを考えるのはまだまだ先で、好きな映画を観て、音楽を聴いて、本や雑誌を読みふけって、気が合うのかどうかもわからない友人たちと酒を飲んで、笑って、けんかもして、「これ」がずっと続けばいいなと思っていた。

わざわざ「これ」がずっと続くことを願っていたのは、20歳という年齢が、わかりやすく眼前に迫っていたからだ。ぼくは20歳に、なりたくなかった。20歳を「おじさん」だと思っていたわけではない。

ぼくにとっての20歳は、「ぶらぶらしてる場合じゃない年齢」だった。なにかを成し遂げるのは無理だとしても、せめてその取っかかりは掴んでいたいというか、芽を出しておきたいというか、そんな年齢だった。そして19歳のぼくは、あきらかになんの芽も出していなかったし、芽吹く気配さえ感じられなかったのだ。


20歳になったとき、自分のなかでのモラトリアム期間が自動更新された。

まあ、考えてみれば20歳なんてまだまだ学生なんだし、やっぱ大事な区切りは24歳だよね。ほら、たしか村上龍が芥川賞を獲ったのが24歳でしょ? それが(当時の)最年少記録なんでしょ? うん。だったらぼくも24歳までになにかやるよ。だって、おれだし。いまはまあ、その準備期間だよ。


けっきょく24歳のとき、ぼくは勤めていた会社を辞めて、フリーライターになった。フリーで食っていけるのかどうかを考えるより先に、「こんな道、あのころには考えてもなかったけれど、いちおうは24歳に間に合ったんだな」と安堵したのをおぼえている。芥川賞とのギャップはともかくとして。


そしていま、ぼくは44歳であり、今年45歳になる。

「この20年よくやってきたな」の感慨はほぼゼロで、いまはただ「これからの20年どうするんだろうな」のほうがつよい。


「どうにかするのが『おれ』なんだし、きっとうまくいくよ」


という自分への信頼はあるものの、そこでの「どうにか」がけっこう面倒くさい道であることもまた、あのころと違って知っている。

はやく50歳になりたいなあ。