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リタイヤしてもほしいもの。

——病院はいま、お年寄りのサロンになっている。

社会保障費、とくに医療費まわりの話題になるとよく語られる話だ。どこが悪いというわけでもないのに病院を訪ね、「先生」に不調を訴え、ついでに短い世間話を交わし、待合室でご近所さんとべちゃべちゃしゃべったのちに湿布のひとつでももらって帰る。そしてまた数日ののちに、どこが悪いというわけでもないのに病院を訪ねてくる。このへん、制度的にどうにかしないと日本の社会保障費は増える一方だよ。……みたいな話である。

病院を頻繁に訪ねる習慣を持たないぼくは、これがどれくらいほんとうの話なのかはわからない。とはいえ、他界した祖母の家に湿布がたくさん備蓄されていたことはよく憶えている。お年寄りが必要以上に病院通いをするって話は、それなりの事実を含んでいるのだろう。

とはいえ、それが「サロン化」しているという指摘には、首を傾げざるを得ない。病院の待合室で何時間もおしゃべりすることはできないだろうし、仮にできたとしても腹が減ったり喉が渇いたりするだろう。ならば喫茶店や、フードコートや、誰かの家や、あるいは公園などに集まるほうがたのしそうだし、実際に朝の公園で犬と散歩していると、そういうお年寄りたちをよく見かける。

じゃあ、「どこが悪いというわけでもないお年寄り」たちは、なぜそれほどにも病院を訪ねるのか。みずからの健康状態を知り、安心したいのか。「先生」からのお墨付きを得て、安心したいのか。あるいはときに、お説教されてみたいのか。されたうえで「先生にこんなこと言われちゃったよ」と、てへぺろしたいのか。

まあ、そういういろいろもあるのだろうけれど、ふと思いついた。

もしかしたら「予定」がほしいのではないか、と。

たとえば次の水曜日、内科に行く予定が入っている。金曜日には皮膚科の、来週には眼科の予定が入っている。気分次第でふらっと訪ねる公園の集まりと違い、病院のそれは「予定」と呼ぶにふさわしい、オフィシャルな約束ごとだ。そういう「予定」が自分の生活に組み込まれていないと、どこか張り合いがないというか、自分の居場所がわからないというか、あまりにふわふわすぎて困るのではないだろうか。現役時代に忙しくしていた人はとくに。


しばしば耳にする「アーリーリタイヤ」や、その先に語られる「悠々自適の生活」。もし定期的に購入している宝くじで一等を引き当てたとして、高級リゾート地での悠々自適生活を手に入れたとして、それでもぼくはなんらかの「予定」を入れまくると思うんだよなあ。好きなレストランでの食事だとか、映画やコンサートだとか、美術館や博物館を訪ねるだとか。そしてそうやって入れていった諸々の「予定」とは、遊びでありながらほとんど仕事と変わらないと思うのだ。

ほんとになにもしないでのんびり暮らすって、そうとうむずかしいよね。