お店屋さんのような人に、わたしはなりたい。
家の近所を歩いていて、ふと足を止めた。
あれ?
思わず声を上げる。いつの間にそうなったんだろう。ちいさな交差点の角に、ぽっかり更地ができていたのだ。
記憶の糸をたぐり寄せる。そういえば、ブルーのシートだかグレーのフェンスだかで覆って、なにか工事らしきことをやっていたような気もする。いや、いきなり更地になるわけもないんだから、たぶん工事してたんだろう。
でも、そもそもここの角には、どんな建物があったんだっけ?
考えても考えても思い出せない。けれども、更地になってしまったそこを見ると、とてつもない違和感がある。「あったはずのもの」がない、という事実におどろき、「いつもの風景」が壊されたことに、恐怖さえ感じる。
つまり、「いつもの風景」とは無意識のなかに広がっているのだ。
そして数ヶ月も経てば、更地をふくめたそこが「いつもの風景」になるのだ。
もしそこで失われてしまった建物が、八百屋だったりクリーニング屋だったりすれば、もっと直接的に「ああ、あのクリーニング屋さん、つぶれたんだ」と気づくだろう。不便に感じたり、お店のひとの顔を思い浮かべて心配したり、するだろう。
考えてみればぼくも、たくさんのひとにとって「いつもの風景」の一部として生きているはずだ。「そこにいること=存在」はあまり意識されなくても、「そこにいない=不在」という状況になったとき、なんらかの違和感をもたらすような場所にはいるはずだ。
「不在」によってその存在を知られる、「いつもの風景」としての自分。
人間そういうものだよ、ともいえるんだろうけど、できればお店屋さんのような人でありたいなあ。いなくなった途端に不便や悲しみを感じてもらえる、「あれ? ここって誰がいたんだっけ?」ではない人間でありたいなあ。
お店屋さんのような人になる。これはひとつの目標といえるのかもしれない。