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つけっぱなしのテレビのように。

英語をまじめに勉強したことがない。

洋楽が好きだったり、ハリウッド映画が好きだったり、吹替版よりも字幕版が好きだったり、外国人の友だちがいたり、英語そのものに触れる機会は、それなりにあったのだと思う。それでもまあ、どうにか観光旅行できる程度の英語しかできないし、向こうの人と政治や経済、文学などを深く論じ合うなんて夢のまた夢だ。

そういう英語バカボンな男の話として聞いてほしい。英語に堪能な人からすれば、「なにをいまさら」の話である。

なにかの映画を観ていたとき「白熱」のことを、white heat と言っているのが聴き取れた。ホワイト・ヒート。すなわち白熱、である。

あるいはまた、これは報道だったと思うけれど、「彼が沈黙を破った」ことを、break his silence と書かれてあるのを読んだ。ブレイク・ヒズ・サイレンス。すなわち(彼の)沈黙を破る、である。

ほかにもいろいろ学び損ねたり、聴き逃したりしているだけで、日本語には英語由来の熟語や慣用表現がいろいろあるのだろう。明治期の人たちは、英語のおもしろい表現に触れ、それを漢字に置きなおしていったのだろう。それこそベースボールを「野球」と訳していったように。


野球といえば現在北海道で監督をつとめている元メジャーリーガー、つまり新庄剛志さんがニューヨーク・メッツに在籍していた当時、いちおう英語を勉強しようと思ったらしい。それで「24時間英語を浴びていればしゃべれるようになるだろう」と、24時間テレビをつけっぱなしにしていたらしい。しかし、「うるさいだけで、なんにも憶えられなかった」らしい。いかにも新庄さんっぽいエピソードである。

ただ、これは英語にかぎった話ではなく、たとえば東大に入ったからといって(それだけで)ぐんぐん賢くなっていくわけではないだろうし、世界を股に掛ける総合商社に入ったからといって(それだけで)すばらしいビジネスパーソンへと育っていくわけでもないだろう。けっきょくはそこで学ぼうとする姿勢、もっと知ろうとする姿勢、が大事なのだと思う。

ぼくは、けっこうな大人になるまで、white heat や break his silence を見逃し、聴き逃してきた。たくさんの英語に触れていたはずなのに、そういうおもしろがり方をしないまま、「つけっぱなしのテレビ」みたいに音として聴いていた。

人との出会いも、恵まれているはずの環境も、自分が「つけっぱなしのテレビ」みたいな耳しかもっていなければ、なんの栄養にもならない。そんなことを思うのだ。