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話すのではなく、話をする。

誰かに会って、話をする。

話す(しゃべる)のではない。ぼくにとって話す(しゃべる)ことは、そんなにおもしろい営みではない。おもしろいのは話を「する」ことだ。「話すこと」と「話をする」ことは、ぼくのなかで「トーク」と「プレイ」くらいに違う行為だ。

話を「する」にはかならず、対等な立場としての相手がいる。相手がいれば話は、思わぬ方向に転がっていく。転がる話をプレイする。ことばのラリーというのともちょっと違う、豊かな時間を一緒につくるよろこびが、そこにはある。

インタビューについてもぼくは、話を「する」ものだと思っている。相手の方と、一緒につくり上げるものだと思っている。黙って耳を傾けることもぼくには、「プレイ」の一環だ。うなずいたり、相づちを打ったり、驚きの声をあげることもみんな、大事な「プレイ」だ。対面しての「話」とは、いちばん原始的で魅力的な、ゲームなのだ。


今日は、ひさしぶりの人たちと会って、話を「する」ことができた。当然のように話は、思わぬ方向に転がっていった。転がる話を眺めながら、その回転を止めることなくみんなプレイを続ける。もっと転がれ、とばかりに話を蹴飛ばす。それぞれに持ち帰るもののある、とてもいい時間だった。こういう時間に飢えていたんだなあ、とあらためて痛感させられた。開校中の「バトンズの学校」にも、なんかこういう時間が必要だよなあ、と思った。

「話す/聴く」の講義的な時間ではなく、ただみんなで(または一対一で)話を「する」時間。カリキュラムのなかにそれを盛り込んでいくのか、補講として別枠の時間を設けるのか。飲食をともなう懇親会がむずかしい状況だからこそ、ちょっと真剣に検討してみたい。


ズームの会話って、「話す」ことはできても、話を「する」のがむずかしいんだよなー。