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採血の話と、文章の話。

■ 採血の話。

今朝、健康診断の延長みたいな感じで、採血をしてもらった。気持ち的には「採血を採ってもらった」と言いたいところだけれど、それは「馬から落馬した」的な誤用になると思われる。ややむずむずするものの、「採血をしてもらった」と表記しておくことにする。

注射そのものが苦手なのではない。血を見てあたまがクラクラするようなこともない。むしろ真空の試験管(?)に血がびゅーびゅー吸い取られるさまを眺めるのは、好きなくらいだ。ぼくが採血を苦手としているのは、看護師さんとのやりとりである。それというのもぼくは、血管が一般よりも細く、針を刺しづらいようなのである。

たとえば採血にあたって、左腕を差し出す。ゴムチューブで二の腕あたりを縛り、親指をなかにして手を握るように指示し、アルコールを塗布した脱脂綿でひじの内側を拭きつつ、聞こえるか聞こえないかの音量で「うーん」の声を漏らす看護師さん。「あ。なんか血管細いみたいなんですよね。右手を出しましょうか」。気遣って逆の手を差し出すわたし。「あ、どうもすみません」。礼を述べる看護師さん。差し出したところで別に、右腕の血管が太いわけではない(ならば最初から右手を出す)。けれども「ひと手間をかけさせた」という負い目のようなものがあるからか、あるいは焦りがあるからか、看護師さんはここから任意の血管に狙いを定め、無理やりにでも針を刺していく。

が、そうして刺された注射針が血管のど真ん中を貫くことは極めて稀で、ほとんどの場合、ちょろちょろとしか血が出ない。そこで看護師さんは針を刺したままグリグリとその位置を移動させ、それをくり返すうちに血もびゅーびゅー出るようになるのだけれども、針を抜いたあと数日にわたって青黒いあざのようなものができてしまう。血管が太くて、こういう諸々の手間がない自分だったらよかったのになあ、と毎回のように思う。

■ 「ていねい」と省略。

……というような話をするとき、ぼくは「みんな採血をしたことがある」という前提で書いている。本来ならば必要とされる状況説明の描写を省略し、「わかるよね」を前提にして書いている。なので採血をしたことのない人にはわかりづらい部分もあるはずで、そこへの説明をサボっている、と言えなくもない。いや、今回の場合はあきらかにサボっている。

けれど——これは思考実験レベルの話だけれど——目に映るすべてを説明・描写した文章なんてものが存在しうるとしたら、それはとんでもなく冗長で読みづらいものになるだろう。

文章中の情報とは、盛り込めば盛り込むほどよくなる、という類いのものではない。むしろ省略の精度を高めていくことこそが「ていねいな描写」なのだと、ぼくは思っている。なにを描いて、なにを描かないか。なにが余計で、なにが足りないのか。その見極めが。

いやー、最近つくづく「文章がうまくなりたいなあ」と思うんですよ。それはたぶん楽器をうまくなりたいと思うのと似た気持ちで。