麻雀を知らないわたしが麻雀漫画を読む。
麻雀のルールを知らない。
これまでの人生で、何度か憶えようとしたことはある。中学生のとき。高校生のとき。そして大学生のとき。なので、初歩的なルールというか約束ごとは知っているものの、役の種類であるとか、点数の計算法であるとかはぜんぜんわからない。もしも仲間に恵まれていたら、そのへんもマスターしたのであろう。幸か不幸かぼくの周辺には、麻雀好きがいなかった。
そんな自分が麻雀漫画を読んだらどうなるか。なかば実験のような気分で、福本伸行先生の『アカギ』を読み進めている。
読みながら、「あの牌がきた」とか「この役が揃いそうだ」とか「なんと裏ドラが」とか、そういう機微はなにひとつわからない。麻雀を知っている人だったら、もっとたのしめるのだと思う。
しかし心理戦のスリルであったり、博打に溺れていく人の心理であったりは十分すぎるほどに伝わり、いまのところおもしろく読んでいる。感覚としては、国際線の機内で観る(字幕のない)ハリウッド映画に近い。
もちろん麻雀好きからすると、荒唐無稽な物語だろう。なんと言っても主人公のアカギさん、お金の代わりに自分の血を賭けて、負けるたびに血を抜かれながらの勝負に臨んだりするのだ。
それでも配牌からの流れは素人目になかなか細かく、ルールを知らんやつは読むな、的な潔さを感じる。「近代麻雀」で連載されていた漫画だけあって、ルールを知らない一般読者まですくっていこうとする邪心は、ほとんど感じない。
こういうのが大事なんだよなあ、と思う。ただのギャンブル漫画ではなく、闇社会を描くアウトロー漫画でもなく、麻雀漫画なのだから麻雀漫画としてのおもしろさに磨きをかける。細い道を選んだのだから、みんなにわかってもらおうとせず、おのれの細い道を極める。けっきょくそこにある本気や真剣が、「みんな」を引きつけるのだ。ぼくみたいな麻雀オンチまでも。
普段の仕事においてぼくは「わかりやすさ」には十分以上の気を配っているつもりだけれど、それが「レベルの低さ」や「専門性の乏しさ」であってはならない。「高度な内容」と「わかりやすさ」は、両立可能であるはずなのだ。つくり手の本気さえあれば。
とかなんとか考えながら、本日も就寝のお供に『アカギ』を読む予定です。