愛犬の日に寄せて。
本日5月13日は、愛犬の日なのだそうだ。
Twitterで #愛犬の日 とハッシュタグ検索すると、愛犬自慢の投稿がわんさか流れてくる。おうおう、おれも愛犬自慢の写真をツイートしてやろうじゃねえか。なんて iPhone のカメラロールを開いてみると、約5万枚の犬写真が出てきてしまい、とても選ぶことができない。
寝顔も変顔もうしろ姿も、ぜんぶがぼくにはかわいい。そしてその「かわいい」は日々更新され、「いまがいちばんかわいい」の毎日を暮らしている。明日になればきっと「きのうよりもかわいい」のだろう。
けっきょくこれは、回数の問題じゃないかと思うことがある。つい「かわいいねー」と言ってしまった回数。その積み重ねが言霊となってぼくに「いまがいちばんかわいい」を感じさせているのではないかと。
たとえばぼくは、大好きなお鮨屋さんが一軒ある。毎月のように通いつめているお店が、一軒だけある。そうやって同じ店に通い続けてわかったのは、お鮨にかぎらずごはん全般は「うまい、うまい」と煉獄さんのように食べるのがいちばんおいしい、ということだ。へたに味を分析しようとせず、あるいは雑談に流されることもなく、ただ同行の人と「うまい」のことばだけを共有しながら食べていく。それによって目の前のごはんは、もっとおいしくなるものだと、ぼくは思っている。うまい料理を前にうまい以外のことばはいらない。なにがどんなふうにうまかったかの詳細は、食後の感想戦にとっておこう。
考えてみれば原稿の感想も、ほんとうは「おもしろい!」以外のことばはいらなかったりする。分析的な「ここがこんなふうによかった」的な感想を聞くとぼくは、「ああ。そういう分析を許してしまうレベルの原稿だったんだな」と少し落ち込む。ほんとうにおもしろい原稿なら、真っ先に「おもしろい!」がくるはずだし、そのおもしろは本来、分析困難なものであるはずだからだ。
ぼくはまだ、こいつの「かわいい」を分析的に語ることばを、持ちえていない。このままずっと「かわいい」のだろう。
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(応募締切は5/31。課題作文があります)