かっこいい人の基準。
かっこいい人、について考える。
イケメンであるとか、背が高いとか、足が長いとか、そういう容れものの話ではなく、ひとりの人間としてかっこいい人。その条件というか、自分がどういう人を見たとき「かっこいいなあ」と思うのかを考える。
たとえば、仕事がばりばりにできる人。たしかにかっこいい。すごい作品をつくる人。めちゃめちゃに頭のいい人。字引のごとくなんでも知ってる人。いずれもかっこいい。あこがれる。
あるいは、やさしい人もかっこいいと言えるだろう。温厚で、えらいはずなのに腰が低くて、弱きを助ける。ボランティア活動に熱心だったり、多額の寄付をしていたり、そういう人もかっこいい。
ところが最近、逆側の基準が大事になってきたよなあ、と思うのだ。
つまり、なにができるか(能力)とか、なにをしているか(行為)とか、なにを言っているか(発言)ではなく、「なにをしないか」こそが、その人のかっこよさを決めるんじゃないかと。
たとえば誰かの、嫌な一面を見る。好意を持ったり、うすく尊敬していた誰かが、ポロッとへんなことを言ったり、やらかしたりする。特段がっかりはしない。聖人君子じゃあるまいし、自分だって似たようなものだ。
でも、ふと思うのだ。「あの人は、こういうことしないよなあ」と。
もう少しわかりやすく具体に近づけると、誰かがセクハラ的な発言をしたとき、そこにいない人の(笑えない)陰口で場を盛り上げようとしたとき、ツイッター的な場でいきがっているとき、それらに不快感を抱いたとき、思うのだ。「あの人は、こういうことしないよなあ」と。
もちろんこれは、目立ちにくいかっこよさである。
がんがんに仕事をして、がんがんに発言して、がんがんにインフルエンスしまくる人のほうが、当然目立つ。
でも、そういう人たちの陰で、そういう時代の流れに逆らうように、静かに「しない」を選んでいる人。その落ち着きというか、かっこよさに、最近のぼくはつよく惹かれている。
いや、自分に対しても思うんですよ。「おれもこれ、やっちゃってるのかなあ。さすがにしないよなあ。目立ちにくいけどそこを、見てくれている人もいるはずだよなあ」って。