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そこに正解はいらないのだ。

「女性は『答え』を求めているのではなく、共感を求めているのです」

男性読者向けの恋愛指南やコミュニケーション術系の本に、よく書かれる話だ。たとえば女性が、風邪を引いたかもしれないと訴えてくる。そこで男性は「この薬、けっこう効くよ」と風邪薬を手渡す。違うのだ、と指南本は言う。女性はそういう問題解決の答えを求めているのではなく、「大丈夫?」のひと言がほしいのだと。

男女を問わずそれはそうだろうなあ、と思いつつ自分も、つい風邪薬を手渡すがごとき対応に出ることが多い。そうじゃないんだよ、が風邪で不安な人の心情だろう。


宅配便の配達員さんでときどき、おおきなカゴを引く自転車に乗った人を見かける。車ではなく、バイクでさえなく、自転車だ。おそらく車で配達するまでもない近隣地区だけをまわっているのだろう。そして車やバイクに較べると、自転車は守るべき交通法規が少なく、たとえば駐車違反でレッカー移動されるような心配が少ないのだろう。とはいえ配達できるエリアにも限度があるだろうし、積み込める荷物の量も限られるはずだ。いったい彼らは、半径何キロくらいのエリアをまわっているのだろうか。

……みたいなことを(フォロワーの多い人が)ソーシャルメディア上に書いたとすると、「半径何キロです」とか「そもそも自転車でまわっている理由は」とか、いろんな正解を教えてくれる。調べものをするには、ありがたい時代だ。

しかし、書いた当人としては「答え」が知りたかったわけではなかったりする。答えなんかどうでもいいから「あれって不思議だよなあ」と言いたかったり、「きっとこういう理由からああなっていると思うんだよ」と考えてみたかったり、それをだれかに話したかったりするだけなのだ。

そういうぼんやりした「もの思い」にすかさず正解を投げかけてくるソーシャルメディア空間は、どこか無言で風邪薬を差し出す野暮天野郎と重なるものがある。

べつに共感を求めてるわけじゃなくてもさ、つまんない正解って、思うことや考えること、そしてコミュニケーションを停止させてしまうブレーキでもあると思うんだよ。