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より自由に、より自分らしく。

名前を間違えられる経験は、多くの人にあるだろう。

たとえばぼくはむかし、有名な詩人のあの人が萩原朔太郎はぎわらさくたろうなのか荻原朔太郎おぎわらさくたろうなのか、おぼつかない時期があった。あるいは作家のカート・ヴォネガットのことをカート・ヴォガネットと言う人がいたり、映画監督のブライアン・デ・パルマをブライアン・デルパマと言う人にも遭遇したことがある。

これらの間違いは主に、「その人について誰かと会話したことがあるか」に起因する。つまり、本や教科書のなかだけで萩原朔太郎に触れていたぼくはそれが「はぎわら」なのか「おぎわら」なのか、判然としないまま漫然と、読み過ごしていた。もしもここで萩原朔太郎について熱く語り合う友人などを持っていたら、さすがに彼が萩原姓であることを憶えていただろう。

一方でまた、音だけは憶えているのに漢字がおぼつかない、というパターンもある。

典型は、渡邊さんを渡辺さんと書いたり、廣田さんを広田さんと書いたり、といった類いのミスだ。しかも渡邊さんの「なべ」には、邊ではない「邉」という字があったり、その他の異字体があったりもする。とはいえワタナベさんの多くは、もはや「なべ」の字を書き間違えられることに慣れっこだろうし、いちいち説明するのも面倒くせえな、くらいにしか思っていないのではないかと拝察する。

ぼくの場合でいうと、古賀という苗字を間違えられることは、ほぼない。むしろ「古閑」さんが、古賀と書かれて「いや、そっちのコガじゃなくて」と説明する場面のほうが多いだろう。

問題は史健という名前のほうで、こちらはしばしば「文健」と書かれたり、「史武」と書かれたりする。そしてぼくもやはり、書き間違えられて腹を立てることはまったくない。珍しい名前ですみません、くらいの感じでそのまま流したり、必要があればそっと訂正する程度のものだ。


高校一年生のころ、最初の英語の授業でベテラン教師が出欠をとった。顔と名前を一致させようとしたのだろう。彼は出席簿を見ながら一人ひとりフルネームで名前を読み上げた。

ぼくの番がまわってきたとき、彼は「えーと、古賀。……古賀、フミ、フミ……」と読み方に苦慮していた。そこでぼくが「フミタケです」と答えると、「うるさいっ! お前なんかフミケンで十分だっ!」と叫んだ。

以来、ぼくは高校時代を通じてみんなから「ふみけん」と呼ばれるようになり、インターネット初期にはメールアドレスにも「fumiken」のスペルを使っていたし、いまでもツイッターのアカウントは「@fumiken」になっている。自分でも好きなのだろう、この呼び名が。


もはやハンドルネームということばは死語なのだろうか。ツイッター上にはたくさんの匿名アカウントがあふれている。ソーシャルメディア誕生以前にも、ペンネームや(ラジオ職人による)ラジオネームなどの文化はあった。たとえば友人の作家、燃え殻さんや浅生鴨さんも、ペンネームだ。

ぼくはせいぜい「ふみけん」くらいの○○ネームしか使ったことがないけれども、ネット上で○○ネームを使う方々はどれくらいその名前を愛しているのだろうか。好きだったらいいな、と思う。身バレを避けるための名前ではなく、「その名前でいたほうが、より自由に、より自分らしく振る舞える」という、獣神サンダーライガー的な名前だったらいいな、と思う。