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ぼくらが「いいね!」を押す理由

「誰が言うか」ではなく、「なにを言うか」に注目しなさい。

しばしば語られることばです。これ、とても納得感のある話だし、ぼく自身、とくに震災以降は、「誰」のところに引きずられることなく、「なに」が語られているのかを自分なりに見極めながら、「こと」の判断を下してきたように思います。ファクトを見つめること、大事ですよね。

ただ、そうは言いながら「誰が言うか」も大きいよなあ、と思わざるをえないのがSNSにおけるふるまいです。

たとえば、仲のよい友だちが「きょうのお昼は吉野家の牛丼でした。久々に食べたけどおいしいね」という投稿をしていたとします。たぶん、ぼくらは「いいね!」的なアクションをとるでしょう。一方、顔見知り程度の距離にあるひとが同じ投稿をしても、なかなか「いいね!」なアクションは起こさないのではないでしょうか。なんなら「お前にだけはぜったいに『いいね!』してやらねえから」くらいの人だっているのかもしれません。

……おいおい、これって完全な「誰が言うか」じゃねえか、と思うわけです。

しかも、そういうケチな了見って、あんまり責められるべきものではなく、みんな心のなかに隠し持つ要素じゃないかと思うんです。ぼく自身、まんべんなく「いいね!」してるとは思えないし、やっぱり「誰」に傾いた判断をしてる気がします。

ただ、その理由を「人間だもの。」のひと言で終わらせちゃうと、ほんとに話が終わってしまうのでもう少しだけ考えてみると、当然なんですよ。SNSでのふるまいが「誰」に寄っていくのは。

というのも、「いいね!」ボタンって、賛同の意を示すツールというよりは、「応援」の意を伝えるためのツールとして機能してると思うんですよね。つまり、そこに書かれた「こと」よりも、それを書いた「ひと」への応援を伝え、周囲の人たちに対しても「わたしはこの人の仲間だよ」を伝えるツール。だとすれば、「誰が言ったか」がメインになるのも当然のことだと思えます。

みんなが感心するようなことを言える人よりも、「みんなに応援される人」になる。それが、SNS時代に明らかになった、人としての在りかたなのかもしれません。


ちなみに、昨日から原稿合宿を開始しました。応援してほしくてこんなこと書いたんじゃないんですよ。いやほんとに。