人間ドックとメガネ、ぼくがつくりたい本。
そういえば先日、人間ドックを受けた。
年に一度の恒例行事。CTとか血液検査とかの詳細は後日郵送されてくるけれど、とりあえず視力はまた落ちていた。メガネが欠かせない人間になりつつある。メガネ、なあ。
ぼくは本を書く仕事している。当然、たくさんの本を読むことも仕事の一部となる。いや、仕事として読むという以前に、読書好きが高じてこの仕事に就く、とされることが多い。幼少時代からのぼくも——いわゆる本の虫ではなかったものの——本は好きだったし、読むことを苦にした覚えはない。
けれど、ずっと視力がよかった。深夜の、暗い枕元で本を読んでいてもまるで視力が落ちなかった。30歳くらいまではずっと視力2.0をキープしていたし、30代の中頃で1.5になったときには、いかにも視力が落ちた気がして軽いショックを覚えたものだ。
昭和の子ということもあってか、若いころのぼくはメガネをインテリの証、くらいに考えていた。たくさん本を読んで、たくさん勉強した結果、メガネをかけている。冷静にクラスの友だちを見まわしてみれば、学力と視力になんの相関もないことはわかっただろうに、勝手にそう思い込んでいた。視力の良すぎる自分が、いかにもバカっぽく感じていた。「いつかはクラウン」ならぬ、「いつかはメガネ」のあこがれを持っていた。
で、実際にみるみる視力が低下していった40代、そしていよいよ日常生活にもメガネが必要になってきた50代、どう思っているのか。
当たり前だが、こんなに面倒くさいものはない。老眼が深刻化していることもあってコンタクトレンズを常用するのも面倒そうだし、なんだかぼんやりした世界を生きている。いまのところメガネは、クルマの運転や映画・コンサートなどの鑑賞、そして自宅でテレビを見るときに限定している。インテリ感はひとつもなく、おしゃれ感もない。
そうそう、それとは別に先日、車の車検が終了した。人間ドックならぬ、車ドックである。ほんとうはその話を書こうと思っていた。人間にとっての人間ドックと、車にとっての車検。そろそろ買い換えを考えたほうがいいかもしれない車と、いろいろ不具合が見つかりそうな年齢の人間。そのへんの話をしようと思っていたのにメガネトークになったのは、元メガネ屋さんの習性だろうか。とりあえずいま、ぼくはメガネとのお付き合い、その距離感に困っているのである。
まあ、メガネには「かけた瞬間の感動」というか、「世界がクリアになる感動」というものが毎回確実にあって、メガネ屋さんで働いていたときは、お客さんが「わあっ」と感動するその瞬間を見るのがなによりも好きでした。
メガネみたいな本、つくりたいです。