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右ポケットの100円硬貨。

右ポケットに100円硬貨をしのばせるのが、彼のならわしだった。

いまどき100円では、缶コーヒーの1本さえ買えやしない。それでなにかを買ったためしもない。それでも彼はポケットに硬貨をしのばせ、人前に出るときには決まって一度手を突っ込み、それが変わらずここにあることを確認して気を落ち着かせるのだった。

「議員、またポケットに手を入れてますね」

遊説先での写真を整理していた秘書が、彼の悪癖を指摘する。彼は秘書たちに自分を「先生」と呼ばせず、「議員」と呼ぶように徹底させていた。政治家は先生でもなんでもない。役割と権限を負託された議員に過ぎない。それが「議員」の理由だった。

「これ、ほんとに印象よくないんで気をつけてください」

秘書の声を受け、彼はまたも右ポケットに手を入れる。初当選をめざして立候補した7年前。彼は選挙アドバイザーを名乗る男のアドバイスに従って、選挙区を自転車で走りまわった。「30代の新人がエアコンの効いた車に乗っている姿なんて見られたら、その場で100の票減ると思ってください」。男の言うとおりに平凡な白の自転車を買い、真夏の選挙戦を走り抜いた。初日から顔面が低温やけどで赤く染まり、選挙戦の序盤にして声も嗄れた。意気軒昂に全国を飛び回る党の老人たちが、欲望の汁をすすって生きる妖怪のように思えた。

選挙戦の最終盤、休憩のため立ち寄ったコンビニエンスストアの前に、銀色に輝く光が落ちていた。目を凝らすとそれは、100円硬貨だった。普段の彼であれば、気にも留めない金額だ。しかし、彼はそれを拾った。どうして拾ったんだろう。これをどうするつもりなんだろう。自分でもわからないまま彼は、停めていた自転車にまたがった。

ペダルを漕ぎ進めるうちに、交番が見えてきた。そうか、自分は交番にこれを届け出るつもりだったのか。たかが100円の拾得物を、わざわざ自転車で届けてくれた新人候補。それを演じるつもりだったのか。ところが足は、ペダルを漕ぎ続ける。灰色の机に腰掛けて談笑する警官たちを、白の自転車が通り過ぎる。おい、待て、止まれよ。どうしたんだ、どこに行くつもりなんだ。誰かが見ていたらどうするつもりなんだ。

「ただいま到着しました!」

駅前には、演説用の選挙カーが待ちかまえていた。まるでマラソン走者を迎えるアナウンサーのように、ウグイス嬢がマイクで叫んだ。選挙カーの上では、白髪を隠さなくなった父が支援者たちに手を振っている。半年前に政界引退を表明し、自分に会社を辞めさせ、地盤を譲り渡した老父が、汗にまみれて手を振っている。車の脇に自転車を停め、父の立つ屋根に登ろうとする直前、彼は右のポケットをまさぐった。そこには確かに、先ほどの硬貨がおさまっていた。

——ほんとうの自分なんて、見せるもんじゃない。

指先に触れた白銅の硬貨が、そう語りかける——。はしごを登った彼は、太陽が照りつける舞台に立ってマイクを握った。選挙戦ではじめて、手が震えていない自分に気がついた。すらすらと、ことばが出てきた。わずかに感じる右ポケットの鈍い重みが、彼を議員にしようとしていた。


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小説なんて書けないけれど、「でまかせ」だったら書ける気がします。