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意味よりもずっと共有したいもの。

あれの総称はメッセンジャーアプリでいいのだろうか。

LINEとか、Facebookメッセンジャーとか、そのへんのツールの話である。これらのサービスが登場した当初、多くの中年がそうであったようにぼくも「メールでいいじゃん」と思った。メールのほうが機能も豊かだし、いちいち友だち申請だの登録だのもしなくていいし、なによりこれまでメールだけで十分仕事をこなしてきたのだから、ここにきてわざわざあたらしいツールを導入する理由もない。そりゃあ中学生や高校生にはたのしいのだろうけども、おれは立派な社会人だ。そんなものいらない。……と、わかりやすくおじさんらしい態度で接してきた。はじめてLINEを使ったのは『ゼロ』という本をつくっていた2013年のことで、スタッフ間のやりとりはすべてLINEで統一しようという提案を受け、やむなくインストールしたに過ぎない。

それがどうだろうか現在。家族や友だちとの連絡も、編集者さんたちとのやりとりも、そのほとんどがメッセンジャーアプリ経由になっている。そしてあんなに寵愛していたメールソフトが、だんだん重たいツールのように感じられ、少なくともメールで会話する(くだらない返信の重ね合いをする)機会はほぼなくなった。

そういうわけでメッセンジャーアプリはおしゃべりを交わしやすく、それを通じて本日も編集者さんとたくさんの会話を重ねたのだけれども、すごくおもしろい本になりそうなのだけれども、やっぱりどこかで「LINEじゃ無理だ」となる。「会って話しましょう」となる。言葉はしっかり交わせているし、添付ファイルやおもしろスタンプまで送り合える。意味も感情もやりとりできている。けれど、なにかが足りないのだ。


沈黙かな、と思った。

顔を合わせて打ち合わせをしていると、「う〜ん」なんて腕組みしながら沈黙の流れる時間が、かならずある。あの沈黙が、「それぞれに考えている」という事実を共有する時間が、案外大切なんじゃないかと思った。メッセンジャーアプリだって「既読」がついてから返信がなされるまで、沈黙といえば沈黙に近い時間が流れるのだけれども、それは共有された沈黙ではなく、むしろタイムラグに近いものだ。少なくともぼくは、互いに腕組みし合う沈黙の時間を大切にしているのだ。

これは取材でも同じことが言えて、たとえ数秒であっても「沈黙の共有」があったほうが、互いの距離は縮まるものだ。しゃべりっぱなしノンストップの1時間や2時間は、原稿に使える材料は揃ったとしても関係はそこまで縮まらず、結果として「意味」に流れた原稿になりがちな気がする。

腕組みしての「う〜ん」。またはその声さえ口に出さない沈黙。3人が集まって「う〜ん」をやっていれば、ひとりくらいはなにも考えていなかったりする。それでも「う〜ん」の贅沢なBGMが、だれかひとりの発想を促す。そういうものだと、ぼくは思っている。