見出し画像

苦しいときの乗車券。

たまにはまじめな話をしてみよう。

誰だってたぶん、お先まっ暗、みたいな気分になることはある。どうしようもなく落ち込んで、なにもかもが嫌になることはある。真剣に、まじめに生きようとしている人ほど、それはあるだろう。いや、へらへらして見える人ほどじつは、誰にも言えない悩みを抱えていたり、まじめな相談ごとをする人や場面を持ちえていなかったりするのかもしれない。毎日のように落ち込んでいる人は、ある意味「落ち込みの達人」ともいえるわけで、めったなことでは落ち込まない人ほど、落ち込んだときの谷は深いのかもしれない。

で、そういうときに語られるアドバイスのひとつに、「気分転換」がある。ゲームをしたり、漫画を読んだり、映画を観たり、あるいはバッティングセンターで白球を打ちまくったり、である。たしかに「それ」に集中しているあいだ、ほかのことは忘れられるかもしれない。意識から遠のくかもしれない。けれども、これらによって晴れるものがあるとすればせいぜい「気分」くらいのもので、落ち込んでいる人は気分とは違う「気持ち=思考」が、底を打っている。晴れたはずの気分も、ほどなく鈍重な「気持ち」に支配されるだろう。

そしてまた、明日や来月、来年に待っているはずの「たのしいこと」を考えてみる、という方策も、なかなかにむずかしい。お先まっ暗な自分にそういう日がくるとは思いにくいものだし、そもそも「いま」の苦しさを抜け出すだけの気力や体力も湧いてこない。この苦境を脱したい、という積極的な意志よりもむしろ、溶けゆく氷のようにこのまま消えてしまいたい、という消極的な欲求が「落ち込み」の核心だったりする。


じゃあ、どうすればいいのか。

ぼく個人の経験則からいうと、身近な「尊敬する人」に目を向けることである。それも、できることなら「いま、がむしゃらにがんばっている人」に目を向けることである。

「そんなことをしたら、ますます劣等感を刺激されて、自分のふがいなさに落ち込んでしまうよ」と思われるかもしれない。いや、がんばっている人をふつうに見るだけだったら、たぶんそうなる。ここで目を向けてほしいのは——あくまでもこれは比喩的な表現だけれども——その人の「目」だ。彼や彼女の「まなざし」だ。

がむしゃらにがんばっている人はかならず、未来を見ている。その人の瞳には、信じる未来が映っている。お先まっ暗に思えるとき、自分ばかり見つめていたら、まっ暗なままだ。まぶしい未来を信じている誰かを見つめることによってようやく、自分の視界にも光が差してくる。とりあえず前に進もうと思えてくる。


苦しいときにはなるべく「自分」を見ない。自分の内側よりも「あの人」の姿を見る。がんばっているあの人の、「まなざし」に意識を集中する。あの人が見ているものを、見ようとする。そうすることで少しずつ、自分や世界のこれからを信じてみようという気にさせられる。彼や彼女が見ている未来の、一員になりたいと思えてくる。観念的な、それ以上に精神論的な、青臭いおしゃべりに聞こえるかもしれない。けれどもぼくは何度となく、そういう「あの人」たちの存在に救われてきたおぼえがある。

あなたの進む「がむしゃら」は、誰かにとっての希望であり、乗りものなのだ。