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いい感じの夢を見たから。

■ 夢のなかで。

よしよし、いい兆候だ。寝起きのぼくはよろこんだ。まず、目覚めがよかった。深い睡眠がとれたとすぐにわかる、後腐れのない目覚めだった。そしてまた、見た夢がよかった。夢のなかでぼくは、原稿を書いていた。きのうの続きを書いていた。「あ、ここにあの話を入れよう」とか「こんなふうに説明すればわかりやすくなるかな」とかのアイデアが、いくつか浮かんだ。そうして浮かんだアイデアの大半は起きた瞬間に忘れてしまうものだけれど、今回にかぎってはひとつ憶えているものがある。この note を書き終えたらさっそく原稿にとりかかろう。

夢のなかでまで仕事してるのか、と思われるかもしれないが、ぼくにとって「仕事に集中できていること」は平穏な日常を過ごしていることと同義だ。できることをする。できることがある。ザッツ・オールである。


■ 遠いドイツのひとたちに。

ドイツ版の Amazon、週間ベストセラーランキング(もっとも読まれたランキング)の1位がユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』で、2位が『嫌われる勇気』だった。しかも13位には、続編『幸せになる勇気』が入っている。

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海外でたくさん読まれることについて、正直実感はない。むこうのことばで書かれた本を読解する語学力がないからだろう、たとえばドイツ語版の『嫌われる勇気』を手に取っても、自分の本だという気がまるでしない。

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ただ、ぼくの本であろうとなかろうと、ぼくはこの報せにおおよろこびしただろうと思う。日本で生まれたコンテンツが世界(とくに欧米圏)で読まれることもうれしいし、エキゾチックな日本を描いた本ではなく、『嫌われる勇気』みたいな本がそうなっていることは、とてもうれしい。

また、ことばも文化も違う海外でたくさん読まれるということは、それだけの普遍性を有している証拠でもあり、つまりは10年後や20年後の読者が読んでもおもしろい、ということだ。この本をつくってくれた30代の自分に、こころから感謝する。


■ 翻訳文化とライターと。

先ほどのドイツ版『嫌われる勇気』。

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そして、いまぼくの机のうえにある積ん読の本。

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カバーの有無とか、ペーパーバックとハードカバーとか、オビの有無とか、あと著者のすごさとか、そういうことを抜きにした両者の一目瞭然な違い、おわかりだろうか。

そう、翻訳者のクレジットである。

日本、韓国、台湾、中国で刊行される翻訳書は、ほぼ例外なく翻訳者の名前が(著者と並ぶように)表紙にもクレジットされている。しかし、欧米圏で刊行される翻訳書には、それがない。いるはずの翻訳者が、いないものとされているような印象さえ、与えてしまう。

このあたりについて柴田元幸さんは、明治以来の日本人には西洋を自分たちよりも優れたものとして仰ぎ見る傾向があり、その「仰ぎ見る視線の途中」に翻訳者がいるため、なんとなく「それなりに偉い人」として翻訳者を見ているのではないか、と指摘されている。そして(帝国主義時代の)西洋人たちは他国の文化を見下すような視線を持っていて、結果として西洋における翻訳者の地位も違ってきたのではないかと。


じつはこの欧米圏での「翻訳者がクレジットされない問題」。

あるいは「誰が翻訳しているか、ほとんど問われない問題」。

もっといえば「いないことにされている問題」。

これってそのまんま、日本におけるライターの地位と同じなのである。


いま書いている本の出版を契機に、ぼくはこの悪しき慣習を改めていきたいと思う。ガラッとまるごと、ひっくり返したいと思う。

さあ、がんばれよ、おれ。

50代や60代のおれに感謝させようぜ。