ぼくらはふたつの嘘をつく。
人は誰でも嘘をつく。
「わたしは嘘をついたことがありません」ということばがすでに嘘であるように、ぼくらはみんな嘘をつく。おおきな嘘か、ちいさな嘘か。罪のない嘘か、罪深い嘘か。とっさに出た嘘か、用意周到につくられた嘘か。「嘘つきは泥棒のはじまり」であり、「嘘も方便」でもある。ひとくちに嘘と言っても、いろんな種類があるだろう。けれども最近、けっきょく嘘とはふたつに分けられるんじゃないか、と思いはじめている。
子どもの嘘と、おとなの嘘だ。
子どもの嘘とは、「隠す嘘」だ。誰かから怒られないために、自分の過ちを隠す。悪事を隠蔽し、なかったことにする。気づかなかったことにしたり、他人のせいにしたりする。その嘘はどこか、殻のなかに閉じこもる貝にも似ている。
おとなの嘘とは、「盛る嘘」だ。知ったかぶりもそうだし、自慢話もそう。マウンティングと呼ばれる行為のオラオラにも何割か、「盛り」が入っているだろう。ほめられたくて、おおきく見せたくて、知らず知らずとおとなは自分を盛り、話を盛ってしまう。
嘘のことばが口からこぼれ出たときぼくは、みぞおちのあたりがひりひりする。思わず話を盛ってしまったとき、思わずなにかを隠してしまったとき、頭よりも胸が、胸よりもみぞおちのあたりが、ぞわぞわと自分の嘘を教えてくれる。もちろん、嘘を書こうとしたときにも、同じことが起こる。
ああ、おれはいま、ちょっと嘘をついているな。そう気づけるだけでもいいのだけれど、それが「子どもの嘘」なのか「おとなの嘘」なのか自覚することができると、なおのこといい。
誰にだって「子どもの自分」と「おとなの自分」が混ざっていて、その配合具合が社会との向き合い方であり、その人の現在地だと思うのだ。