なぜ思い出話は後輩のものなのか。
思い出話は後輩のもの。
以前に、そんな話を書いたことがある。ほぼ日刊イトイ新聞の読み直し企画「私のほぼ日プレイリスト」に寄せた原稿だ。
イラストレーター湯村輝彦さんと糸井重里さんの対談、「ごぶさた、ペンギン!」を紹介するにあたり、ぼくはこんなことを書いた。
この「思い出話は後輩のもの」という視点は、自分でも案外気に入っていたのだけど、なぜそれが「後輩のもの」なのかについては、よくわからないままだった。そりゃあ、後輩のほうが先輩をじっくり観察してる、というのはあると思う。先輩はいちいち後輩のことなんか見ていない。それでも、両者の記憶力に差が出る理由には、あまりならない。先輩と後輩では、同じエピソードに対しても記憶のさまがぜんぜん違うのだ。
そこに最近、ひとつの仮説を思いついた。
まあ仮説というほど立派な話でもないけれど、後輩ってのは基本的に「先輩の話」を何度もしているのである。酒の肴として、愚痴として、ときにはここだけの秘密として、これまでの人生で何度も「うちの先輩」「あの先輩」の話をしてるのだ。そうして同じ話をくり返すうちに、記憶が強化される。もしかしたら、ねじ曲がったかたちで強化される。
一方で先輩は、さほど後輩の話をしない。先輩だって「自分の先輩」の話をしていたほうが、おもしろい。結果として後輩とのエピソードも見事に失念し、「そんなことあったっけ?」現象が起こりまくる。
長らくフリーランスとして先輩も後輩もいない人生を送ってきたぼくだけれども、会社をつくってからはわかりやすく後輩ができた。「先輩の話」してるのかなあ。考えるとちょっと、ぞわぞわする。