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私的スマートフォン・ショック。

柳澤健さんの『2016年の週刊文春』を読んだ。

『1976年のアントニオ猪木』にはじまる柳澤健さんの年号シリーズ、その最新刊だ。バブル期の週刊文春をつくった花田紀凱氏と、「文春砲」の時代を築き上げた新谷学氏の両編集長を主人公としつつ、菊池寛以来の文藝春秋史を振り返る一冊である。著者・柳澤健さん自身が文春OBであり、花田・新谷両氏とともに雑誌をつくってきた経験の持ち主でもあるため、文藝春秋や雑誌づくりの内実がこれでもかと語り尽くされている。とくに花田氏や故・勝谷誠彦氏の天才性について触れた箇所などは、多くのライター・編集者にとって、下手な文章読本の何倍も学びとなるはずだ。最終章はやや冗長に感じられたものの、たいへんにおもしろい読書だった。

柳澤健さんの著書から一冊、と言われればぼくはこれをおすすめします。


同書のなかに、「インターネットの普及は新聞および雑誌に少しずつダメージを与え続けていたが、決定的な一撃となったのはスマートフォンの登場だった」との記述があった。これはまったくそのとおりで、スマートフォン普及の以前と以後とでは、ぼく自身の本づくりも大きく変わった(変わらざるをえなくなった)。あるいは、note社の加藤貞顕さんをはじめ、出版社を飛び出してあたらしい事業を起こした編集者たちの多くも、スマホ・ショックがなければそのまま出版社にとどまっていたんじゃないかと思う。

と、そういう業界ネタっぽい話とはまた別に、スマートフォンの誕生はぼくの日常さえも大きく変えてしまった。


数日前、「いまのおれが生きてていちばんうれしい瞬間って、どこにあるんだろう?」と考えた。仕事以外の、プライベートの時間のなかで、おれはなにをうれしく思っているんだろう、と。



……出てきた答えは「犬のかわいい写真が撮れたとき」だった。

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小学生のときに実家で飼っていた雑種犬の写真をぼくは、一枚も持っていない。実家を探しまわれば一枚くらい残っているかもしれないけれど、手元にはない。あの雑種犬のこともちゃんと好きだった。自慢の犬だった。けれども写真が残っていないのはやはり、カメラの問題なのだと思う。かぎりある大事なフィルムを犬にバシャバシャ使うことは、どこかもったいないことのように思われた。写真は、旅行や運動会や入学式やのときにだけ撮られるものだった。

それがデジタルカメラの時代になり、スマートフォンの時代になるに及んで、いまやぼくは毎日何枚・何十枚の写真を撮りまくっている。犬の、かわいい写真を撮っては「かわいいなあ」とにやにやする。しみじみとうれしく思い、犬のことをもっと好きになる。

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おれにとっての「スマートフォンが変えたもの」は、写真との距離であり、要するに被写体との距離だったんだよなあ、と思うのである。