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愛は負けても、親切は勝つ。

愛は負けても、親切は勝つ。

カート・ヴォネガットがたびたびくり返してきたことばだ。しかしヴォネガットの語るところによると、これは彼自身のことばではない。彼のファンだという、ひとりの高校生が送ってきたことばなのだそうだ。

 わたしは、けさ(1978年11月16日)インディアナ州クラウン・ポイントのジョン・フィグラーという見知らぬ少年から、一通の手紙を受け取った。(中略)
 ジョン・フィグラーは、善良な高校生である。フィグラー少年によると、彼はわたしの書いたものをほとんど読みつくしたので、いまやわたしの半生の著作の核心にあるただ一つの思想を指摘できるまでになったという。彼の言葉をかりれば、それはこうだ——「愛は負けても、親切は勝つ」
 言い得て妙だとわたしは思う——しかも過不足がない。というわけで、56歳の誕生日を5日も過ぎたいま、わたしは忸怩たる心境におちいった。なにもあんなにたくさんの本を書く必要はなかった。たった14字の電文で、ことは足りたのだ。
 いや、まじめな話。
 しかし、フィグラー少年の洞察がこちらへ届いたときは、もう手遅れだった。わたしは新しい本をほとんど書き上げてしまっていた——それがこの本である。

ジェイルバード』(朝倉久志訳)より

愛ということばについて、とくに自己愛ということばについて、考える。

自己愛が強い人、と聞いてどんな人を思い浮かべるだろうか。朝から晩まで鏡を見ては、ほれぼれしているナルシスト。自分がいちばんと信じて疑わない極度の自信家。とにかく自分ことが大好きで、自分を中心に世界が回っていると考える自惚れ屋。……そういう姿を思い浮かべる人が多いと思う。そして「おれは自分のことが嫌いだから、コンプレックスの塊だから、自己愛なんてこれっぽちもないよ」と思っている人は、とても多いと思う。

けれど、これは「愛」ということばの捉えかたが違っていて、実際の自己愛とは「自己執着」に近いものだと、ぼくは思っている。

だから自分のことが大っ嫌いで、コンプレックスの塊だという人も、自分に執着しているという意味では強烈な「自己愛」の持ち主と言える。多くの場合「愛」とは——それが他者に向けられたものであれ、おのれに向けられたものであれ——「執着」のことを指すのだ。

そしておのれへの執着が強い人は、他者に、自分と異なる意見や価値観に、寛容になることができない。「自分と違う」というだけで過剰に反応して、やたら攻撃的になってしまう。ともすればSNSが不毛な論争とも呼べない悪口合戦の場になりがちなのは、そこが自己執着型の人たちが集う場になっているからだろう。

で、自己執着から抜け出して、いい意味で「自分を手放す」ことが寛容の肝だと思うのだけど、そうやって自分を手放す際のキーワードこそが「親切」なのだ。「愛は負けても、親切は勝つ」のだ。

自分に親切。ひとにも親切。

「親切」って、いいことばだと思いません?