愛は負けても、親切は勝つ。
愛は負けても、親切は勝つ。
カート・ヴォネガットがたびたびくり返してきたことばだ。しかしヴォネガットの語るところによると、これは彼自身のことばではない。彼のファンだという、ひとりの高校生が送ってきたことばなのだそうだ。
愛ということばについて、とくに自己愛ということばについて、考える。
自己愛が強い人、と聞いてどんな人を思い浮かべるだろうか。朝から晩まで鏡を見ては、ほれぼれしているナルシスト。自分がいちばんと信じて疑わない極度の自信家。とにかく自分ことが大好きで、自分を中心に世界が回っていると考える自惚れ屋。……そういう姿を思い浮かべる人が多いと思う。そして「おれは自分のことが嫌いだから、コンプレックスの塊だから、自己愛なんてこれっぽちもないよ」と思っている人は、とても多いと思う。
けれど、これは「愛」ということばの捉えかたが違っていて、実際の自己愛とは「自己執着」に近いものだと、ぼくは思っている。
だから自分のことが大っ嫌いで、コンプレックスの塊だという人も、自分に執着しているという意味では強烈な「自己愛」の持ち主と言える。多くの場合「愛」とは——それが他者に向けられたものであれ、おのれに向けられたものであれ——「執着」のことを指すのだ。
そしておのれへの執着が強い人は、他者に、自分と異なる意見や価値観に、寛容になることができない。「自分と違う」というだけで過剰に反応して、やたら攻撃的になってしまう。ともすればSNSが不毛な論争とも呼べない悪口合戦の場になりがちなのは、そこが自己執着型の人たちが集う場になっているからだろう。
で、自己執着から抜け出して、いい意味で「自分を手放す」ことが寛容の肝だと思うのだけど、そうやって自分を手放す際のキーワードこそが「親切」なのだ。「愛は負けても、親切は勝つ」のだ。
自分に親切。ひとにも親切。
「親切」って、いいことばだと思いません?