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わたしはケチが嫌いだ。

吝嗇家はいやだなあ、と思う。

読めるだろうか、吝嗇の文字を。ぼくは最初、読めなかった。ぼんやりと蕎麦的ななにかをイメージしていたが、違う。「りんしょく」と読む。「ケチ」という意味のことばである。ならばどうして「ケチ」の語を使わないのか。おのれの語彙力をひけらかしたいのか。それも違う。「ケチな人」と言うよりも、「吝嗇家」と言ったほうが収まりがよく、音の響きもいいからである。

たとえばぼくは「コスパ」ということばが嫌いだ。仮に自分のつくった本について「コスパが高い」とほめられても、ちっともほめられた気がしない。同様に、どこかのお店(アパレルから飲食店まで)について「あそこはコスパ的に最高だよ」とおすすめを受けても、ぜんぜん行く気にならない。「ワンコインで、こんなに食べられるんだよ」と力説されると、「うん。ぼくはツーコイン出すから、もっとうまいものが食べたいな」と思ってしまう。

おそらくコスパ大好きな人びとは、コスパを「生産性」に似た意味で使っているのだと思う。そしてぼくも、生産性が大切なのはわかるのだけれど、少なくとも趣味や遊び、食事や睡眠、あるいはお風呂なんかについて、生産性やコスパを求めることはしたくないなあ、と思うのだ。

あるいは、人に奢ることが大好きだし、プレゼントするのも好き。デートと呼ばれる類いの会食等々で、割り勘を申し出たことはたぶん一度もない。これはぼくにお金のゆとりがあるからそう思うのではなく、来月の家賃も危ない赤貧時代からずっとそうだった。

ぼくには人びとが「節約」と呼んでいるさまざまの行為が、吝嗇家による「せせこましい貯金」にしか見えなかったのだ。清貧でもなんでもない、ぎらぎらした「損するものか、得してやれ」の欲を感じてしまうのだ。


そして、本題はここから。

この「ケチ」ということばはおもしろいなあ、と思うのだ。

マスメディア、インターネット、そしてSNSを見ていると、他人にケチをつけることを生きがいとし、なんならそれを職業にしてしまっているような人が大勢いる。もちろんぼくは、彼らが嫌いだし、苦手だ。

そしてケチ(吝嗇)ということばから、他人にケチをつけてよろこんでいる人は、心の吝嗇家なんだろうな、と思うようになった。貧しいのではない。卑しいのだ。誰かの足を引っぱることによって、おのれの存在価値を実感しようとするケチな了見が。


ケチにならず、ケチをつけず、吝嗇家にならない。

それを胸に置いておくだけだけで、けっこう気持ちのいい人生が歩めるんじゃないかしら。酒の肴としてはたのしいんですけどね、ケチづけって。