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長くなりそうな一週間のはじまりに。

■ 引きこもって原稿を書く。

と言って思い出されるのはやはり、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』である。呪われたホテルの物語である本作は、孤独と原稿の重圧に押し潰される作家志望者の悲劇としても読めるよう、つくられている。この映画の主人公はジャック・ニコルソンであり、オーバールック・ホテルでもあり、ジャック・ニコルソンを呪われたホテルの被害者と見るか、ある種の共犯者として見るかによって、その印象もおおきく変わってくる。

で、この映画をはじめて観た高校生のとき、映画そのものの感想——当時のぼくは「これこそマイ・ベスト・ムービーだ!」と興奮しまくった——とは別にぼくが思ったのは、タイプライターのおそろしさである。

タイプライターを使わない日本人にとって、本作におけるタイプライターの使われかたはまったく戦慄ものだったし、静寂のなかに響きわたる打鍵音もまた、おそろしかった。しかしまあ、パソコンが普及してキーボードによる執筆・その他作業が当たり前になった現在、本作のジャック・ニコルソンみたいに「文字」を打っている人も多いのかもしれない。


■ リモート、できないんじゃなかななあ。

じつは本日、カッキーと打ち合わせの予定だった。当然、直接会って飛沫をぶつけ合うようなおしゃべりはできないわけで、彼から「Zoom にしましょうか?」と提案されたのだけれども、それも断って純粋な延期にした。ぼくの不慣れが主な原因とはいえ、彼との打ち合わせについてまだ、リモートで代用できる気がしないのだ。それならいっそ、メールや LINE のやりとりのほうが意思疎通できる気がする。このへん、うまいやりかたを模索していかなきゃなあ。


■ 不要不急の人間として。

半分くらいはサボリごころの気の迷いなんだろうけれど、いまつくっている本について、「発売を延期してもいいのかなあ」とこの週末に考えた。

こういう本をつくろうと思い立ったのは一昨年。構成を固めて書きはじめたのが去年。当たり前のこととして、こういう事態が起こるとは思っていないときに考えられた企画で、平穏無事な世のなかが続いている前提のままに動きはじめた、いわば不要不急の企画である。

で、そういう長期間におよぶものに取り組んでいてつらいのは、豪雪のなかで夏の暑さについて書いているような、現実と原稿の著しい乖離だ。現実の些事をシャットアウトして書くのはへっちゃらなんだけれど、「ものすごくたいへんな現実」を無視するように書くのはとても疲れるし、それでいいものができる気がしない。そんなことよりもひとりのライターとして、この現実に直接触れるようななにかをいま、取材して、書いていったほうがいい気がする。それこそが自分のやるべき仕事に思えてくる。


そして思い出すのだ。

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こういうときに気をつけなきゃいけないのは、力になりたいという気持ちが空回りして、無力感に襲われることなんですよね。「自分もなにかしたいけれど、なにもできていない」とか「こんなことをやっている場合じゃない」と自罰的な気持ちになって、仕事が手につかなくなる。とくにほぼ日の場合、毎日更新するメディアですから、どうしても机に向かいながら「こんなことをやっている場合だろうか?」という気持ちが強くなってくる。

『古賀史健がまとめた糸井重里のこと。』より


東日本大震災当時のことを振り返った、糸井重里さんのことばだ。

いろんな考えかたはあるのだろうけれど、いまのぼくは不要不急の仕事人として、不要不急の、いまの現実とまるでリンクできてる気がしないお仕事に取り組んでいくのだと言い聞かせる。