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大人の世界と子どもの世界。

ほんとうは、クリスマスの話を書こうと思っていた。

幼き日のわが家ではクリスマスを祝うという習慣がほとんどなく、おかげで自分はサンタクロースという白髭の老人について、その存在を信じたことが一度もなかった。自分にとってのサンタクロースは、白雪姫やシンデレラのごとくに「西洋のむかし話の人」であった。サンタクロースを信じる環境に生まれるであろう最近の子どもたちが、けっこう羨ましい。

そういう話を書こうとして、ふと考えた。サンタクロースを信じる子どもたちは、人生のどこかの段階で「サンタさんなんかいない」ことを知る。その事実にたぶん、ショックを受ける。

かなり種類は違うものの、ぼくも大人になってから、それに似たショックを受けたことを思い出した。


大学を出て働きはじめたとき、とくに出版の仕事をはじめるようになったとき、ぼくは心底おどろいた。先輩が、そして上司が、もっと言えば世のなか全体の大人たちが、きわめていい加減に仕事をしていることに。しかもそれで、社会がまわっていることに。

ぼくは社会というものを、もっと合理的で、規則的で、なかば精密機械みたいなものとして想像していた。詳細きわまるルールと、その遵守によってまわっているのだと考えていた。けれども実際に働きはじめてみると、みんなむちゃくちゃなテキトーさで働いている。契約、納期、新人育成、あるいは経営方針の決定から新規事業の立ち上げまで。いろんなものがゆるゆるで、ぜんぜん精密機械じゃない。歯車が、まったく噛み合っていない。よくぞこんなテキトーさで社会が崩壊しないものだな。ぼくは、まじめにおどろいていた。大人たちの社会を、もっと「かしこい人たちが設計した場所」だと思っていたのである。

そしてあるとき、同年代のインテリゲンチャな編集者と雑談しているとき、ぼくは上記のような思い出を伝えた。いまだに信じられないんですよねえ、これで社会がまわっていることが、とかなんとか。

ふっ。ちいさく笑うと彼は、メガネに手をやり「古賀さん、お父さんのご職業はなんですか?」と訊いてきた。「あ、公務員です」。正直にぼくは答える。

「やっぱり」。ふたたび笑って彼は続けた。

「うちも親が教員だからわかるんですが、親がお堅い仕事をしている家庭の子どもほど、社会を『そういうもの』だって考えがちなんですよね。僕もそうでしたよ、実際。その違和感は、いまでも確実に残っています」


……この話の妥当性はともかく、もしも自分がいまの時代の子どもだったなら、社会をそういうものだとは思わないだろう。SNS を開けば、たくさんの大人たちが仕事の愚痴を並べ、泣き言を漏らし、怨嗟の言葉を呟いている。そういう大人たちを見て育ったならば、間違っても社会を「かしこい人たちが設計した場所」だなんて思わない。テキトーで、めちゃくちゃで、理不尽ばかりが跋扈するところなのだと思うだろう。

大人も子どもも同じ場所で、同じものを見ている時代なんだよなあ。なんて当たり前のことを、このクリスマスに思ったのでした。