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なにかが中止になることの意味。

思えばとても、不思議な1年を過ごしている。

いまとりかかっている本の原稿、本格的に動きはじめてからそろそろ1年になる。まだまだ書き終える気配はなく、むしろ書けば書くほど書きたいことが増えていく始末だ。目標としている今年の秋、無事に出版できるのか、かなり怪しいと思いはじめている。当初の予定では数か月、長くても半年あれば書き上げられると思っていたのに、まったくぜんぜんだ。

で、それだけ予定が狂っておきながら、悪くいえばのうのうと、よく言えば腰を据えてじっくりと書いていられるのは、これが誰かから依頼された本ではないからだ。つまり、出版社の誰かから「こういう本を書いてください」と依頼を受け、「ついては期日はこれまでに」と指示されながら書いているものではなく、自分の勝手で書いている。ありがたいことに出版を名乗り出てくれた版元さんも複数あるけれど、いまだ正式な契約を結んでいるわけではない。編集を担当してくれているカッキー(柿内芳文氏)も、版元の人間としてではなく、フリーの立場でともに取り組んでいる。カッキーはあの手この手で尻を叩いてくるけれど、原理的に、座組みとしてこの本の締切は、「おれが書き終えたとき」なのだ。

なんてうらやましい話なんだ、と締切に追われていた20代のぼくは思うかもしれない。けれど、ここにはおおきな落とし穴があって、長い時間をかけてひとつの本をつくるとき、その1年や2年は完ぺきに無収入にならざるをえないのである。稼ぎ、ほんとのゼロなのだ。この本に関していえば。

そしてまた、1年や2年の時間をかけて書き上げたとしても、それをどこの版元さんも出版してくれないかもしれない。「いやいや、ここまでやっておいて、さすがにそんなことないでしょ」という考えは甘ちゃんの発想だ。たとえばぼくは過去に2冊、構成として関わった本が直前で出版差し止めになったことがある。いずれも著者さんが法を犯して——ひとりは実際に逮捕されて——しまい、それどころではなくなったからだった。ぼくがなんらかのかたちで法を犯す可能性だってゼロではなく、その他いろいろ不測の事態はいくらでも起こりうる。起こりうるからそれは不測の事態なのだ。そうなればほんとうに1年や2年、タダ働きというか、そもそも報酬が発生しないのだから労働とさえ呼べないような時間を過ごしたことになってしまう。



今月からイベント、コンサート、その他の興行まわりで起きていることは、まさにこういう事態なのだろう。たとえばぼくも書店さんでのトークイベントが無期限延期になったりしたけれど、それはまあいい。ぼく個人でいえば「投資」のほとんど発生していない、あたまのなかにあることをしゃべるだけと言えばそれまでのイベントだ。けれど、コンサートや演劇のようにあきらかな投資——時間的、労力的な——が発生しているものや、「仕入れ」の発生しているものが「不測の事態」として中止に追い込まれるのは、金銭的にはもちろん、こころの上でもダメージが計り知れないだろうと思う。

それでまあ、政府に補償を求めるような声が出るのもわかるのだけど、自分がその当事者だったとして(先の出版差し止めの例で)考えた場合、いちばんつらいのはそれだけの時間や労力を投じて書いてきた原稿が、誰の目にも触れないまま消えていくことだ。儲けのことを考えないわけじゃないけど、そんなこと以上に、みんなと触れあいたくて書いてきたものなのだから。


だからね、金銭的な補償は大事だし、それはそれとして進めていかないといけないんだけれど、本来つくり手がいちばんたのしみにしていたはずの「お客さんと触れあう機会」の補償というか、代替システムの設計・構築みたいなものは、民間のほうで考えていくしかないし、自分自身で考え、模索していくしかないんでしょうね。たとえばここの note なんか、その重要なインフラになりえるだろうし。

……って考えると、既存のソーシャルメディアが怒りやデマや罵倒語にあふれた場になってるこの状況、つくづく残念だよなー。なんか、次のメディアが生まれる機会になるといいのだけれど。