見出し画像

あたたかい、をつくること。

こうして毎日書いていると、かならず毎年この日がやってくる。

触れないままに書くのも違う気がするし、必要以上の深刻さで書くのもまた違う気がする。3月11日は、ぼくにとっていつも「なにを書けばいいんだろう」の日だ。2011年のあの日、自分がなにをしていたかはよく憶えている。なにを見て、なにを思ったかも憶えている。ただそれをどこまで書くべきなのか、書く必要があるのかはよくわからない。憶えている、というそれだけでじゅうぶんのような気もする。

関東大震災の起きた9月1日は現在、「防災の日」となっている。おかげで、何世代もあとに生まれたはずのぼくらも、震災の記憶とまでは言わないまでもその日になにが起きたのかを記憶にとどめている。

ならば、3月11日もなにかの日として制定したほうがいいのではないかと思わなくもないけれど、そうすると阪神淡路大震災や今年の能登半島地震はどうなのか、という思いに駆られるし、それぞれの被害のおおきさを比べるような話になるのもおかしいだろう。防災の日とするのはやはり9月1日だけでいいのかもしれない。


それにしても、と思う。

阪神淡路大震災は1月17日で、東日本大震災は3月11日。今年の能登半島地震は元日だった。それぞれの被害が甚大だったことはもちろん、避難生活に「寒さ」が重なっているのはなんともやりきれないなあ、と思う。「寒さ」が重なった公民館や体育館での避難生活、その心細さと身体的な苦労は察するに余りあるもの。あたたかいごはん、あたたかいお風呂、そしてあたたかい住居。「あたたかい」が確保されるだけで救われるもの、たくさんあるはずだよなあ。それはウクライナの人たちのいまを思うときにも、いつも考えることだ。

この季節、犬と一緒にソファで身を寄せ合って「あたたかい」の交換をおこなうことが多い。それは安心の交換でもあり、信頼の交換でもあり、親愛の交換でもある。「あたたかい」とは与えられるものではなく、つくることができるものであるのだと、犬と暮らすようになってからぼくは知った。

今夜も犬と、「あたたかい」をつくろう。