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おとなの「いやいや期」。

いやいや期、突入である。

幼児の話ではなく、犬の話でもなく、最近45歳になった、ぼくの話である。なにに対する「いやいや」なのかというと、今日の note についてちょっと「いやいや」というか、書きたくないなあと思っている。毎日書いていると当然こんな日は定期的にやってくるし、それをわざわざ「ほんとは書きたくないんです」なんて書く必要はないのだけど、ちょっと「いやいや」の正体について考えることだったらしてみたい、と思ったのでこれを書いている。「いやいや期」なんてチャーミングなことばでごまかしながら。

ライターという職業を選んでいることもあり、ぼくは「書くこと」が大好きな人間だと思われることが多い。面倒くさいので訊かれれば「まあ、最終的には好きなんでしょうね」みたいな答えかたをするのだけど、たとえば映画やサッカーを観ることと、文章を書くことへの「好き」のありかたはずいぶん違う。前者が純粋な「たのしみ」だとすれば、後者はもうちょっと必要に駆られた能動だ。喉が渇いたから水を飲むとか、空腹に耐えかねて胃袋になにかを詰め込むとか、欠けているなにかの充足行動として「書くこと」があるような気がする。

欠けているなにかの正体は、基本的に「しゃべり」だ。

うまくしゃべることがかなわないため、そして文章として書いていったほうがラクに伝えられるため、ぼくは書く。もしも「しゃべりの達人」だったら、なにも書いていないとまではいかなくとも、ライターのような仕事には就いていないんじゃないかと思う。

そういうぼくに「書くことのいやいや期」が訪れるのはたぶん、ひとりでじっくり考えたいことがあるからだ。中途半端にことばを与えてしまったら、そこで考えが止まってしまい、せっかくの「考えたい」が消えてしまうからだ。

たぶんぼくはいま、じっくり考えたいことがあるのだろう。

こういうときのそれは、直接的な仕事のことではない。わかりやすい人間関係のことでもなく、人生計画的なことでもない。

なんなんだろうなあ、と思いながらいま、これを書いている。


ちょっと疲れた木曜日。休みやお酒が必要なのかもしれない。