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こんなことを書いていながらおれも。

ウソと呼ばれる言動には、おおきくふたつの種類がある。

ひとつめは「子どものウソ」である。これは「隠すウソ」と言ってもかまわない。たとえばお皿を割ったのに、割ってないと言い張る子ども。おもちゃを壊したのに、壊してない、自分は知らないと言い張る子ども。大人だって仕事やプライベートのさまざまな場で、似たようなウソをつく。ここでのウソは「怒られないこと」をおおきな動機としている。

ふたつめは「おとなのウソ」である。こちらはおおきく「盛るウソ」と言えるだろう。おれは地元でブイブイ言わせてた、的な発言をするおとな。あいつはワシが育てた、的な発言をするおとな。あの仕事はおれがほとんどひとりでやった、的な発言をするおとな。もちろん子どもも、似たようなウソはつく。こちらは「褒められること」をおおきな動機としたウソだ。

もっとも、ウソには複雑怪奇な動機とからくりがあり、上記のふたつだけですべてを説明できるものではない。しかしながら「怒られること」を受け入れ、身の丈以上の「褒められること」を放棄できたならば、口から出てくるウソはずいぶん減ってくれるのではなかろうか。

ぼくだってウソはつく。気がつけば大小さまざまなウソをついている。けれどもなるべくウソを遠ざけたいと思っていることは事実で、そこにウソはない。少なくとも自分では、そう思っている。


その意味で最近のソーシャルメディアが厄介なのは、処世術としてのウソが求められるからだ。あの場に正直な気持ちを書けば、炎上という面倒のリスクがめちゃくちゃに上がる。「怒られたくない」に近い動機のもと、マイルドなウソを自然とついている。

そしてたくさんの人に知ってほしい、拡散してほしい、フォローしてほしいといったことを望めば、そこにもなにかウソが発生する。多くの人に「褒められること」を目的とした、自分ではないことばが口から出たりする。なにかを盛りぎみに語ったりする。

もちろんこの文章だって、おのれの「怒られたくない」と「褒められたい」が共存したなかで、書かれている。なにかのウソをまとっている。


書くことはウソをつくことなのか。

だとしても自分はやはり、ウソを遠ざけウソを減らしたいのだ。