見出し画像

こうしてぼくは軽んじられる。

最近、ある方に「古賀さんは軽んじられることに躊躇がない」というほめ言葉をいただきました。わはははは。それぜんぜんほめてねえよ、と笑われるかもしれませんが、ほめてる(もしくは感心している)文脈で、その言葉をいただきました。へらへら笑いながら「まあ、重んじられたことがないから」と返したのを覚えています。

対面の場で軽んじられてもまったく問題ない。だってぼくはそこで誰かと争ってるわけじゃなく、ぼくのほんとの評価が下されるのは原稿が世に出たそのときだから。

そんなふうに考えながら生きてきたのですが、はたしてそれだけでいいのだろうか。ふと疑問に思いました。というのも昨日から「幸せになる勇気」のプロモーションで韓国にきているのですが、ここはいま、地球上でいちばんぼくを重んじてくれる土地でもあるんですよね。先生扱いし、VIP扱いし、なんなら賢人扱いさえしてくれる。まあ、世界賢人会議なんてものにパネラーとしてご招待してくださったりするくらいですから。

で、そういう場所、そういうセッティングのなかでへらへら小者づらしてると、相手の期待をことごとく裏切ってしまってる申し訳なさがあるわけです。なんというか、「おれ」の欲として重んじられたいんじゃなくって、向こうの欲として重んじたい、立派な先生であってほしい、その「えらい人」のありがたい声を拝聴したい、という想いをひしひしと感じるし、そのリクエストに応えていくのが大人なのかなあ、と思ったり。

でも、ぼくは二泊三日のセンセイの旅、とかだからこうして客観視もできるけど、それが日常の「構え」になっちゃったら、見えなくなるものも多いんだろうなあ。

ま、やっぱりぼくは軽んじられたままがいいや。みなさん、思う存分に軽んじてくださいね。そのほうが自由でいれますので。