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チューイングガムの思い出。

いま、ガムを噛みながらこれを書いている。

ガムは不思議な存在だ。たとえばこれを「ガムは不思議な食べものだ」と書きたくなったとしても、すぐさま「はたしてガムは『食べもの』なのか?」の疑問が湧き上がる。噛んでいるだけ、胃袋に入れることのないまま捨てるだけのぐにゃぐにゃなのだから、厳密には食べものと言えないだろう。食べていないのだ、ぼくらはガムを。

と言って思い出されるのは、建築家のフランク・ロイド・ライトである。

なんの本で読んだか忘れてしまったけれど、彼は「テレビは目のチューイングガムである」と語ったのだそうだ。もちろん、「そんだけずっと見続けてしまう」という意味のことばなんだろう。しかし同時に「腹の足しにならない」や「なんの栄養価もない」が含まれるフレーズでもあって、うまいこと言うもんだなあ、と感心しきったことをおぼえている。


むかしからインターネットには「便所の落書き」というキャッチフレーズがつけられてきた。けれども最近思うのは、やはり「目のチューイングガム」である。とくにソーシャルメディアにはその傾向がつよく、ちょっと油断するとまた噛んでいる。味も香りもなくなって、もはや唾液さえ出ないのに、まだ噛んでいる。しかもチューイングガム同様、眠気覚まし効果があったりするから厄介だ。


そういえば小学生のころ、味のなくなったガムに砂糖を振りかけて噛めば、半永久的に味わえるんじゃないか、と考えたことがある。しかしそれはとんだ大間違いで、振りかけた砂糖の味は5秒もたたずに消えてしまった。そしてなにより、じゃりじゃりした舌触りはちっともおいしくなく、ガムという商品の奥深さをぼくは知ったのだった。

30年くらい前に(すこし)流行った「歯みがきガム」って商品、好きだったな。おいしくはなかった。でも、これも小学生時代からの宿願だったのか、やたらと味が長持ちして好きだったのだ。