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その応酬から、ぼくは離れる。

「わたしはそう思わない」

マスメディア、またソーシャルメディアにあふれる情報に触れたとき、頻繁に湧き上がる感情だ。違うよ、そうじゃないよ、それはおかしいよ、間違ってるよ、わたしはそう思わないよ。どこかが報じたニュースについて、誰かが発した意見について、そう思う。

これはある種、当たり前の反応である。世のなかは自分と同じ意見の持ち主ばかりであるはずもなく、誤った情報を発信しているメディアや人も多いのだから。

しかしここで、「わたしはそう思わない」の論陣を張りたくない、というのがぼくの個人的スタンスだ。

できるだけ穏当な例を挙げてみよう。たとえば以前、ぼくが好きな飲食店の看板犬に関するレビューを見かけた。そのお店には、雑種の黒い看板犬がいて、いつもおとなしく厨房に鎮座していた。お客さんのところにくることはほとんどなく、ときおり会計時に常連さんから撫でてもらったりしていた。吠えたりもしないし、厨房でトイレをするわけでもない、とてもいい子だった。その看板犬とお店について「厨房に汚い犬がいるなんてとんでもない! なんて不衛生な店なんだ! 保健所に通報するレベルだ!」と、かなり攻撃的な文言によるレビューが書き込まれていた。

当然ながらそれを読んだぼくの気持ちは「わたしはそう思わない」である。そのお店のことは大好きだったし、看板犬がいるのもうれしかった。

けれどもここで、レビュー主に対して「それは違う!」みたいなコメントをつけたり、その投稿のスクショを貼って「こんなことを言ってる輩がいるけれども」と批判することは、あまりやりたくないのだ。当人に宛てたものではなく、もっと広い場所で「犬のかわいさ」や「看板犬のいる店のよさ」を書きたいのだ。そうしないと、もったいないのである。

自分の意見が芽生えるきっかけに「わたしはそう思わない」があるのは、自然なことだと思う。「わたしはそう思わない」という反発の先に、「わたしはこう思う」の意見が育つ。だから、ちょっとした違和感をキャッチするセンサーはとても大事だ。

ただ、そこで語られる意見が批判とセットになったままだと、つまり「わたしはそう思わない。なぜならわたしはこう思う」だと、考えの深さが足りないままに終わる気がするのである。なにかを否定したこと自体に満足して、それ以上を深く考えないまま終わるというか。

なので話を先の例に戻すと、レビュー主に対して「あなたは間違っている」の話はいっさいせず、それどころか「あなた」の存在さえも思考から切り離して、ただ「わたしにとっての犬のよさ」を考える。黒々とした念を洗い流した澄んだあたまで「自分の考え」に思いを巡らす。そうして(当人を悔い改めさせるのではなく)ひとりでもいいから「犬のよさ」に同調してくれる人を増やしていく。

そのほうが自分のためにも、おそらく世のなかのためにも、いいような気がしている。


まあ「わたしはそう思わない」の批判的言説には、また別の誰かからの「わたしはそう思わない」が寄せられたりするものですからね。「わたしはそう思わない」の応酬は、やってるほうも読んでるほうも心がすり減るばかりのような気がします。