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それをマラソンにたとえる、その理由。

一冊の本を書きあげる作業は、マラソンを走ることに近い。

長い作業のたとえとして「マラソン」はいかにも凡庸であるし、ぼくはこれまで42.195kmのフルマラソンを走ったことがなく、徹夜仕事を終えてから直行した山梨で20kmだったか27kmだったかのハーフマラソンを一度走ったことがあるだけだ。つまり不適当なたとえを不相応な人間が使っていることを承知のうえで、あえて「マラソン」と言いたい。

走り(書き)はじめて間もない2〜3km地点くらいまでは、本番がはじまっているとの実感が薄い。練習の延長というか、いかにも「仮」のものとして走りはじめる。息が上がることも、足がつらくなることもない。「ま、このペースなら何時間走っても大丈夫そうだな」なんてことさえ思っている。

そこからしばらくすると、フルマラソンでいえば10〜18km地点くらいだろうか。「これ、いつまで続くん?」期が訪れる。走れども走れども距離は変わらず、むしろゴールが遠のいていくような錯覚さえおぼえる摩訶不思議の混迷期だ。本の場合も当然、書いても書いても先が見えず、「これ、いつまで続くん?」と不安になる瞬間がかならず訪れる。しかも何度となく。

続いてやってくるのが「折り返し地点」である。本来ここは「よっしゃー、半分終わったぞー!」とよろこぶべき地点なのだが、自分の経験上、一度としてそう思えたことはない。毎回決まって「まだ半分!? これと同じことをもう一回? しかもこの体力で!?」と絶望する。「おれは完成することのない本を書き続けているのではないだろうか」との不安に襲われる。

そしてどれくらい走ったあとだろうか。予測不能なタイミングで、あれがやってくる。執筆をわざわざマラソンにたとえなければならなかった主因、すなわち「ランナーズハイ」である。さすがに書いてて恍惚とするわけではない。夢見心地のなかで書けるわけではない。しかしながら「よっしゃー!」と思えるアイデアが突如降り立ち、「やっべ、超おもしれえ」などとひとり興奮する瞬間がかならずやってくる。ここまで書いてきたバラバラの話が、言うなればぼんやりした予感のもとに書き散らしてきた伏線が、一気に回収されるような「軸」がドスーンと貫かれる瞬間である。これがきてしまえばもう、勝ったようなもの。自分がたくさんの観衆の待つ国立競技場に向かって走っていることが、目に見えなくても直感としてわかる。体力的にはへろへろなれど、この道で間違いないのだと確信できる。

昨日・一昨日の週末、原稿を書きながらそういう瞬間が訪れた。書きながら「なるほどぉー」と声に出し、こころのなかでガッツポーズを決めた。

呼吸を止めて一気に書き上げる100m走も、たくみなペース配分が求められる10km走も好きだ。しかしこういう瞬間があるフルマラソン、すなわち本の執筆がいちばん好きだよなあ、とぼくは思うのである。

まあ、締切はやばいのだけど。