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継続がもたらす心の平穏。

先日、「バトンズの学校」1期生のオンライン懇親会が開かれた。

懇親会というより同窓会である。卒業後に出版社や編集プロダクションへの就職が決まった人、ライターとしてたくさんの仕事をこなしている人、個人としてあたらしいコンテンツに取り組んでいる人、みんなたのしそうに近況報告をしてくれた。

自分として振り返っても「バトンズの学校」は、やってよかったと思う。初回ならではの反省点は多々あるものの、やってよかったし、たのしかった。ぼく自身、たくさんのことを勉強することができた。

しかし、である。

「勉強になったなあ」じゃダメなのだ。学校は7〜8ヵ月に渡って続いた。その間は学校だけに集中して、必死で受講生さんの課題文を読み、山ほどのフィードバックを続けていた。ほかの仕事はごめんなさい、すべてストップさせていた。くり返すが、とっても勉強になった。

けれど、その「仕事ができない7〜8ヵ月」がぼくは、めちゃくちゃにもどかしかった。早く現場に復帰したい、早く現場で「これ」を試したい、早く現場で「あれ」をかたちにしたい。そんな気持ちがずっと渦巻いていた。

それは「置いていかれる」の焦りだったのかもしれないし、「忘れられる」の焦りだったのかもしれない。自分が過去の人になりそうで、とてもとても怖かった。産休・育休の経験者にインタビューすると、休業当時の気持ちを同じように振り返る方は、わりと多い。自分に帰る場所はあるのか。椅子は用意されていたとしても、それは以前と微妙に異なる椅子ではないのか。そのような悩みであり、焦りである。おそらくこれは病の療養期間中にも、感じる焦りだろう。

で、自分があの7〜8ヵ月の焦りを深刻なものにせずに済んだのは、意外とここの note を継続していたおかげだったりする。学校の開催期間中、それまでと同じように日々どうでもいい話を書き続け、その継続によってかろうじて社会との接点を失わず、結果として「置いていかれる!」や「忘れられる!」の焦りを本格化させずに済んできた。

「毎日ブログを書いたら文章がうまくなりますか?」と訊かれたならば、ぼくは迷わず「なりませんよ」と答える。おれを見ろ、なってないだろ、と。

しかし世のなかには「変わらないための継続」というものがあって、ぼくにとっての note はそこに該当するのだろうなあ、と思うのだ。筋力アップを目的としたトレーニングではない、体力維持を目的とした習慣というか。

継続によって保たれている心の平穏、たくさんあると思うんだよなー。