見出し画像

アーカイブ思考から離れる。

卓球とカーリングはおもしろい。

これは夏と冬のオリンピックがやってくるたび、つまりは2年ごとに、毎回実感する事実である。いつのオリンピックでも「そうそう、卓球(カーリング)っておもしろいんだよなあ」と観戦をはじめ、「いやー、こんなにおもしろかったっけ?」と夢中になり、「最高におもしれえスポーツだよ、これは!」と興奮が頂点に達したところで大会を終える。

そこで毎回「よーし、これからは国内大会もちゃんと観よう」「世界大会を追いかけよう」と心に誓うものの、数か月もすればそんな近いも忘れ、次のオリンピックがやってきたときにまた、同じことをくり返すのである。「そうそう、カーリングって真剣に観たらおもしろいんだよなあ」と。

なんて薄情な人間なのか。われながらそう思う。けれどもおそらく、薄情のひと言で済ませるべき問題ではなかろう。オリンピックという最高の舞台でくり広げられる真剣勝負は、興奮や感動の強度がすごすぎて、わかりやすく「思い出」になってしまうのだ。そして思い出とは過去であり、「すでに終わったこと」である。選手のみなさんがどんなモチベーションでオリンピック後の大会に臨んでいるかはともかく、観ているこちらとしては、なかなか「あのオリンピックの続き」として観戦することがむずかしい。

サッカーのワールドカップが巧みなのは、本大会終了後、1年もすれば次の大会の地区予選がはじまるスケジューリングにある。選手やファンに「思い出」に浸る時間を与えず、ばんばん尻を叩いて次を促す。「なんかこの代表にはまだ愛着が湧かないんだよなー」と思いながらも予選は予選なので半ば義務的に観戦しているうち、あたらしい代表チームのことを好きになっている。本大会ではもう、「このチームと別れたくない!」なんて状態になってしまっている。

念のために当たり前のことを書いておくと、これは「サッカーは FIFA の運営がすばらしくて、卓球やカーリングは運営的によろしくない」と言っているのではない。

ただ「思い出」の怖さを語っているのだ。

思い出は大事なものだし、宝物でもある。けれども思い出には、人を過去にとどまらせる磁力のようなものがあり、しかもそこにとどまることは心地よかったりする。

「なんか慣れないなあ」「ちょっと居心地が悪いなあ」くらいの場所にいるとき、その人は前を向いて次の大会に参加している。年齢を重ねた人たちの歩みの速度が遅くなるのは、浸るべき思い出の数が増えすぎるからなのかもしれない。アーカイブで充足していたらそりゃヤバイでしょうよ、と思うのだ。