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「最近の若いもんは」と「わしらの若いころは」。

いつの時代にも「最近の若いもんは」と語る人はいる。

現在も、20年前も、そして100年前や1000年前にも「最近の若いもん」は、似たような理由で責められている。常識を知らないとか、礼儀がなっていないとか、やる気がないとか、なにを考えているかわからないとか、そういう責められ方を、ずっとしている。

同様に、いつの時代もセットのように語られてきたであろう話が、「わしらが若いころは」である。

「わしらが若いころは、こうだった」「こんなことを考え、こんなふうに生きていた」。「それにひきかえ、最近の若いもんはけしからん」というわけだ。そうでなければ最近の若いもんを叱責するロジックが成立しないし、当然、そこでの「わしらが若いころ」は肯定的なニュアンスで語られる。

けれど、どうだろう。

たとえばぼくの子ども時代、親や祖父母の世代が語る「わしらが若いころ」の話といえば、もっぱら空腹にまつわる思い出だった。

さつまいも、脱脂粉乳、くじら肉。バナナのあこがれ、飽きたすいとん。そういう話を、さんざん聞かされて育った。そして聞くたびにどこか、申し訳ない気持ちになるのだった。「こんな豊かな時代に生まれてすみません。食べものを残したりしてごめんなさい」と。

一方、ぼくらの世代が「わしらが若いころ」の話をしたとしても、なかなか空腹話にはならない。戦時中に生まれたわけでもないし、終戦直後に生まれたわけでもない。家庭ごとに「一杯のかけそば」的な記憶はあったとしても時代として腹を空かせていたわけではなかろう。

代わりに、ぼくらの世代につきまとう「わしらが若いころ」のネタはなにかというと、「むかしはヒドかった」の話である。

セクシャルハラスメントにパワーハラスメント、その根底に横たわる女性蔑視と家父長制度。体罰、暴力、大暴言。どこでも喫煙、ふらふら飲酒運転、サラリーマンの立ち小便。などなどだ。

一部には、これを「あのころはよかった」的に振り返る人間もいるものの、基本的にはみんな「むかしはヒドかった」として当時を振り返っている。また、そういう時代に生き、そういう時代の空気を普通のこととして受け入れていた自分を、恥ずかしく思っている。


ぼくはいまいち「最近の若いもんは」思考になれないんだけど、それは若い人たちへの理解があるというより、「わしらが若いころは」と鼻を膨らませて語るほどの世代的苦労を経験してないことに起因してるんだろうなあ、と思うのだ。そりゃ就職氷河期の第一世代でもあるんだけど、まともな就職から逃げてきたし、いまの若い人たちのほうがずっと大変だと思うものなあ。

ともあれ、あの右も左もハラスメントだらけだった時代が終わって、それを終わらせることができて、ほんとによかったと思いますよ。まだまだはびこっていますけどね、あのころの価値観は一部に。