見出し画像

ひとつの発明が拡散するとき。

ぼくはそれを見たことがないのに、見たことあるようなつもりでいる。

たとえば手術室の医師。低い声で「メス」とつぶやき、助手からメスを受け取り、目を見開いて患部を見つめ、一息入れるごとに助手がそっと汗を拭く。何度も何度も見たことのあるシーンだけど、ほんとうにそんな手術室が存在するのか、実際のところはよくわからない。あるいは取り調べ室における刑事と容疑者のやりとりも、そうだ。さすがに最近では「どうもカツ丼は注文しないらしい」が常識になってきたものの、それでもどれくらいのおおきさの部屋に、どんな人たちがいて、どんなやりとりなされているのか、知っているようで知るはずがない。遭難しかけた雪山における「寝るなー!」の叱責もそうだし、極道のひとたちが盃を交わしたり、小指を切り落としたりする儀式と所作だって、ほんとうに見たわけではない。

けれどもぼくらがそれぞれのシーンを知っているつもりになっているのは、元をたどれば誰かがそれを「発明」したからだ。

小説、映画、テレビドラマなどのすぐれた制作者たちが、おもしろみと説得力にあふれたそれぞれのシーンを「発明」し、それを「こりゃあ、いいぜ!」と思った後進のひとびとが模倣し、いつしか取り調べ室のカツ丼が常識のようになっていく。その一連の流れは「拡散」と呼んでもいいのかもしれない。


と、ここでおもしろいことに気づく。

先に挙げたような手術室や取り調べ室、さらには雪山での遭難といった、ある意味ベタすぎるシチュエーションをぼくは、どこで見たのだろうか。実際に容疑者がカツ丼を食べる映画なんて、見たことあっただろうか。

考えてみるとこれ、ほとんどぜんぶ(主にドリフターズの)コント劇で見ているのだ。お笑いコントというデフォルメを極めた空間のなかで、ぼくは取り調べ室のカツ丼をおぼえ、手術室の緊迫したやりとりを知り、雪山で遭難しても寝てはいけないというルールを身につけていったのだ。

ぼくたちが常識だと思っていることの多くは、意外にも「お笑い」によって拡散していったところがおおきいのかもしれない。


実例を挙げよう。

いまだから白状するが、中学生までのぼくは「女の子はみんな、小さな赤リボンのついた真っ白なパンツを穿いているんだ」と思っていた。そしてたぶん、そんなパンツは存在しない。どこかのギャグ漫画家が「発明」して、それを別の漫画家が「発見」して「模倣」して、やがてさまざまな漫画家たちの手によって「拡散」していったのだ。