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行きずりの読書にならないために。

古典とはなにか。どんな本のことを古典と呼ぶのか。

むかしに出版されていれば古典、というわけではなかろう。たとえばぼくは小学生のころ、アブドーラ・ザ・ブッチャー著の『プロレスを10倍楽しく見る方法』という本をたいへんおもしろく読んだ。けれども40年以上の時を経た現在、同書が古典として扱われているかといえば、まったくそんなことはない。

では、内容なのか。つまり、人生や学問や芸術や労働や恋愛などについて、なにか普遍的なことの書かれた本が古典なのか。

たしかにそれは古典のたいせつな要素であるものの、たとえば今月発売されたばかりの新刊を「古典」と呼ぶことはしないだろう。どれだけ普遍的な、すばらしいことの書かれた本であってもいきなり古典とは呼ばない。ある本が古典と讃えられるには、それなりの時間が必要なのだ。

以前、なんの本だったか古典について、こんな感じの定義を見かけた。


"古典とは、それを読む人が「いま読んでいる」とは言わず、「いま読み返している」と言ってしまう本のことである。"


おれだおれだ、あいつだあいつだ。大笑いしたのを憶えている。しかしだれの書いたなんの本だったかは、もう憶えていない。海外の小説だったか人文書だったはずだ。


という話を書いたのは、まさに現在「読み返している古典」があって、ところが読めば読むほど読んだおぼえがないというか、清々しいほどに内容を忘れきっており、「もしかしたら読んでなかったのでは?」とさえ、おのれを疑っているからだ。

マーク・トウェインの『不思議な少年』である。

裏話というほどでもない昔話をすると、『嫌われる勇気』を書くにあたってぼくのなかには、マーク・トウェインの『人間とは何か』という本の存在があった。ソクラテス式問答を模した、老人と青年の対話篇である。『嫌われる勇気』の哲人と青年は、完全にそのオマージュだ。

そして『人間とは何か』とセットで語られる本が『不思議な少年』であり、むしろ一般的な知名度からすると後者のほうが高い。当然ぼくも『不思議な少年』を先に読み、のちに『人間とは何か』を手に取った。そして『嫌われる勇気』の執筆時にもやはり、両作ともに読み返した。


でも、憶えてない。読みながらいちいち「わあ!」とかびっくりしている。「そうくるんだ!」とか「まじかよ!」とか驚いている。ほとんど初読のようにたのしんでいるのだ。

これはほかの本や映画でもだいたい一緒で、ぼくは人生ベスト級の感動をした映画であっても、その内容をほとんど憶えちゃいない。おもしろかった、つまらなかった、ゲラゲラ笑った。そんなことしか憶えていない。

しかし、この忘却力のおかげで再読や再鑑賞のたのしみが得られるのだし、おぼろげな「おもしろかった」の記憶が残っているかぎりにおいてその作品はもう、名作が保証されているのである。また、仮に再読・再鑑賞した際に退屈したとしても、「なぜあのときの自分はこれをおもしろく感じたのか」や「どうしていまの自分はこれをたのしめないのか」を考えることはたのしい作業になる。

むしろ中途半端に内容を記憶しているほうが、再読のたのしみを妨げ、結果として一度きりの、行きずりの読書になってしまうのだ。