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自分の下馬評をどう考えるか。

いまでもまだ、しつこくW杯のことを考えている。

あのときこうしていたら。あそこでこっちを選んでいたら。歯ぎしりとともにそれらの「たら・れば」を考えているのではなく、なぜあそこまで行けたのか、なにが代表を覚醒させたのか、を考えている。だってやっぱり、日本代表のベスト16進出と、ベルギー戦の激しくスリリングな展開を事前に予想できていたファンや関係者は、ほとんど皆無じゃないかと思うのだ。「騒ぎすぎるな。結局は10人相手の試合で1勝できただけだ」なんて声も出ているけれど、これだけの強豪たちと試合をしながら「惨敗」がひとつもなかったことがもう、ぼくには驚きだ。トルコに敗れた2002年や、パラグアイに敗れた2010年とは、同じベスト16とはいえ相手も違えば試合の強度も違う。今回のベルギーはガチの優勝候補だし、そのベルギーをいちばん追いつめたのもいまのところ日本代表のように見える。

西野監督が就任する直前、日本代表はどん底と言ってもいい状態にあった。結果が出ないのはもちろん、試合内容もよくなかったし、選手たちから覇気のようなものが感じられなかった。そして西野監督が就任してからの親善試合でも、劇的な変化があったわけではない。コンディション不良の選手が多かったこともあり、どこか身体が重たそうな試合ぶりだった。なんだかよくわからない前監督の解任理由含め、ファンやメディアの協会に対する不信感は、絶頂に達していた。

もちろん、2か月にも満たない西野体制で技術的・戦術的ななにかが大きく向上するはずはない。負ける要素、惨敗する要素は、かつてないほど揃いすぎているように見えた。

それでもなお、今回の日本代表は世紀のジャイアントキリングを演じてみせた。いったいなぜなんだろう。


わかりやすい話をするなら、やはり初戦のコロンビア戦がすべてだったのだろうとは思う。今回の代表はコロンビア戦にピークを合わせて調整していたし、おそらく事前に練った対策も、対コロンビアにかけたものがいちばんだっただろう(セネガルやポーランドに関しては、事前の対策は半分程度で、W杯初戦や第2戦を観てから練った対策も大きかったと思う)。この「初戦がすべて」のピーキングは、やはり6大会連続出場の経験がそうさせたはずだ。初戦に勝利したことで、チームは星取勘定以上の自信を得たし、風向きは大きく変わった。

ただ、それ以上に深く、個人的に考える部分がある。

ひとつは、「ハリルホジッチからの解放」だ。封建的な父親のように振る舞い、意にそぐわないプレーをする選手を容赦なく追放し、「お前らの活路はこれしかない」とばかりに柔軟性を欠いた戦術を強いたハリルホジッチ。ぼくはその戦術を否定するほどの知識・見識は持ち合わせていないけれど、端から見ていて選手たちはいかにも息苦しそうだった。そして息苦しさの裏には「ハリルがいなかったら、この制約がなかったら、もっとこんなサッカーをするのに!」という自分たちの理想が芽生えていたはずだと、想像する。そしてハリルホジッチという鎖から解き放たれた瞬間、選手たちは能動的な「おれたちがやりたかったサッカー」を展開した。ハリルホジッチがつくったベースを踏まえた上で、もっと柔軟に「ここまでできる」を表現した。

昨年、スポーツグラフィック誌の『Number』で、ラグビーの元日本代表監督エディー・ジョーンズさんに取材させてもらったとき、彼は自身の長所を「感じる力」だとして、その意味をこう語ってくれた。

"コーチとは「選手に見えないもの」が見える存在です。そして選手は「コーチに感じることのできないもの」を感じることができる存在です。通常、この溝は埋められません。監督はピッチに立てないし、選手はピッチ全体を眺めることがかなわない。私は「選手にしか感じることのできないもの」を察知する能力に長けている、と自分では分析しています。"

『Number』925号より

もしかするとハリルホジッチという監督は、高所に立って「選手に見えないもの」を見るばかりの監督だったのかもしれない。いや、これは彼だけではなく、西野さん含め監督と呼ばれる人びとはみなそういう側面があるのかもしれない。しかし今回、西野さんは選手たちにかなりの自由を与えていたように見える。帰国した選手たちは口々に「誰それと、こう話し合っていた」「ここを狙っていこうと、何度も確認し合っていた」という選手間のコミュニケーションについて語っている。

帰国後の記者会見で印象的だったのは、西野監督が「私は46日だったが、選手たちはブラジルから4年、悔しさをもって闘ってきている。その強い思いにはとても勝てなかった」と語っていたことだ。もしかしたら西野監督は、その「思い」を尊重した結果、あるいは「選手にしか感じることができないもの」の存在を認めた結果、今回のような采配を振るったのかもしれない。


もうひとつ、記者会見で興味深かったのは、長谷部選手が語っていた次のことばだ。

"この雰囲気をひっくり返してやろうと選手全員で話していた。やってやったじゃないですけど、そういう気持ちももちろんあります。"

スポニチ 7月6日紙面より

「あいつらを見返してやろう、この下馬評をひっくり返してやろう」という怒りに満ちた反発心というより、これは「このまま負けてしまったら、日本のサッカー界がとんでもないことになる」という危機意識が生んだ結束だと思う。思わずこぼれた「やってやった」のひと言に込められた「そら見たことか感」は当然の感情だけれど、それくらい追い込まれていたのだと、追い込む心境がゼロではなかった呑気なファンのひとりとして想像する。


ぼく自身の経験を振り返ってみても、まわりから過度な期待をかけられている状況(この期待に応えなきゃ、というプレッシャー)よりは、まわりから期待されず、むしろ小馬鹿にされているくらいの環境のほうが「この状況をひっくり返してやれ」の力が出やすい。下馬評が低ければ低いほど、ジャイアントキリングを演じる欲が、ぐんぐんに高まる。

期待されるのはありがたいことだし、期待されない自分じゃダメだと思うけれど、どこかで自分の下馬評を低いところでとどめ、自分で自分の下馬評をひっくり返してやる、誰よりもおれを見くびっているおれが、その見くびりをひっくり返してやる、という気持ちを持っておくことは大切だと思った。それがつまり、危機意識を忘れない、ということなのだ。