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自意識の正しい扱い方

自意識って厄介だ。こう見られたい。こう見られたくない。いろいろあるよね。

たぶん、自意識を完全にゼロにできる人も、自意識がもたらす結果まで思い通りに操れる人もいないんだと思う。

じゃあ、書き手の自意識はどこまで必要か?

すごく雑に言えば、自意識にまみれた文章なんて大惨事になりそうだけど、まったくなくてもいいかというと、それも違う気がする。

そもそも自意識の定義って何なんだろう。自分という存在を自分が認識している状態が自意識。

有名なデカルトのコギト命題《我思う、ゆえに我あり》だ。

自分のことがまったくもって自分で意識されなくなったら、それはそれで困る。コギトってラテン語で人間の思考を意味するらしい。コビト問題だったらよかったのに。

だけど、これには嘘が隠されている。

私が思う私は、本当に私が思う私なのか問題だ。

私はもしかしたら他者かもしれない。本当は「他者が入り込んでいるかもしれない私が思う、私がある」あるいは「私が思う、他者が入り込んでいるかもしれない私がある」でなければおかしい。

いったい何の話をしてるのか。大丈夫か。

ここで冒頭の話に戻ります。書き手の自意識の話。自分が思う自分はあてにならない。だから自意識にまみれて書いてしまったものも怪しくなる。

だったら、他者が入り込んでるかもしれない私が思う、私の自意識で書けばいいんじゃないか。

書き手にとっての他者は、端的に言って「読者」だ。読者が一緒に読んでる状態で私が思うことを書く。そういう自意識ならむしろプラスのほうに働く。

いわゆる「読ませる人」「文章がうまい人」は意識的、無意識的にそういう自意識を使えている。

いや、書き手に限らないかも。尊敬する小林賢太郎さんがSWITCHインタビューで語られてて鼻をひくひくさせながら頷いた。

自意識というか常に自分を観察してる自分がいて、そいつが自分を操ってる。ひとりでもちゃんと襟のあるシャツを着て仕事するようにって。誰も見てないのに。

でも、いつかそんな自分を誰かに話すときに「ひとりなのに襟のシャツ着て仕事するんだ!」って、ちょっと驚かれる。その日のためにどうやら自分はやってるらしい、と。

まさに他者が入り込んでるかもしれない私が思う、私の自意識じゃん。それでいいんだな思う。そして、そういう自分を持っている先に「いいもの」が生まれてくるのだ。


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