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カレーとある人生

「カレーが食べられなくなったときは、もうお終いだ、きっと」

こんな一文をどこかで見かけたんだけど、どこだっけ。

池波正太郎先生のエッセイだったのか、どこかのカレーの店だったのか記憶は定かではない。

もうなんか、なんでもない一文の中に人生が煮詰まってる気がする。

煮詰まるというのは本来の意味で。せっかくカレーが煮詰まってるのに、もう食べられない状況を想像するとなんか泣けてくる。

考えてみれば「カレー」ってふしぎな存在だ。概念としてはみんなほぼ共通のものを持ってるのに、個人それぞれが思い浮かべる「カレー」はまったく違う。

自分の家の「うちカレー」をデフォルトで思い浮かべる人もいるし、カレーの名店だったり、レトルトカレーだったり、あるいはキャンプ的な場所でつくるカレーだったりいろいろだ。

存在感の振り幅も大きい。すごく日常の中で食べる名前も付かない日のカレーもあれば、秘伝のスパイスで何日も煮込んだなんたらみたいな物語がくっついてくるのもあるし。

カレー発祥のイメージのあるインドには「カレー」なんて言葉は存在しないというのも、なんかカレーらしい話だなと思う。確固たる由緒はないけど、みんなの中に食文化として入り込んでしまってるところとか。

何でもない日だってカレーはおいしいし、うれしい日も、沈んだ日もカレーの味だけは変わらない。

なのに、そのカレーすら食べられなくなったら、もう本当にいろんな意味で人生がお終いのときなんじゃないかという冒頭の一文は真理なのかもしれない。

でも、これがカレーじゃなくて「蕎麦」や「パスタ」だと「パスタが食べられなくなったときは、もうお終いだ、きっと」とはならない気がしないですか?

いや、パスタを低くみてるって話ではなくてパスタも好きなんだけど、パスタはパスタ系宇宙すぎて、別次元というかカレーほど生々しく人生を呑み込んでこない感じがする。

とにかく、なんか無性にカレーが迫ってくる。ついでにカレーと人生についても考えてしまう。4月の日曜日。


※昔のnoteのリライト再放送です