珈琲うどんのテーゼ・旅
旅の「ずれる感じ」が好きだ。またよくわからないことを言い出してる。わかってます。
なんだろう。旅って非日常とか言うけど、個人的にはあまりそんな感じがなくて。むしろ拡張された日常。時間的にも距離的にも。
もし、旅が完全に「非日常」に入り込んでしまったら、そこで体験すること考えることはエンターテインメントになってしまう。いや、それでもいいし、むしろそっちを味わいたい人だっていると思う。それももちろんわかる。
だけど、完全な非日常空間というか異世界では、そこでどんなことが起きても「そりゃ、非日常だもんな」って合点がいってしまう。それだと逆におもしろくない。
日常の延長線上、日常をまとった自分に、ちょっと変なことが起こったり変な思考が入り込んだりする「ずれる感じ」が個人的には好き。たぶん、伝わらないですね。
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四国のある町を訪れたときもそうだった。よく覚えてないけど、たぶん取材か何かの帰りに通りがかったんだと思う。そこの喫茶店で「珈琲うどん」に出会った。
珈琲うどんといっても、コーヒーの中にうどんが入っているわけでも、あの伝説の名店、うどん喫茶「スタート」のようにコーヒーを練り合わせたダークな麺のことでもない。
その喫茶店は地方のどこか忘れられた小さな町にありがちな、コカコーラのロゴの入った電飾看板に『喫茶小鳥』だとか『憩』などと無愛想に印されているだけの小さな店で、外からは中の様子を窺い知ることはできない。
昔からぼくは、なぜだかそうした店に足を踏み入れることが好きだった。
ガラスのショーケースに、色あせたコーヒー豆が盛られ(なぜ盛る?)、すっかり変色した得体の知れないクリームソーダのサンプルが置かれていたりする放置された匂いに惹きつけられる。
曇りガラスが格子状にはめ込まれた古びたドアを開け店内に入る。思ったとおり客の気配はない。それどころか店の人の気配すらないのだ。
仕方がないので、店内を見渡して取材の資料をまとめるのに良さそうなテーブル席を見つけ、そこに座った。
人がいるはずなのにいないという独特の欠落感と共に漂う空気は、宮沢賢治の『注文の多い料理店』を想い起こさせる。どこかに次の扉があって、その向こうでは身体に白い粉を塗って待つように指示されるのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えていると、いつの間にかぼくの目の前に老婆が現われている。まるで、煙のように現われて謎のメッセージを告げ消えていく何かの使者のように見えた。
老婆はメニューすら差し出さず、おもむろにぼくにこう告げた。
「珈琲にしますかね? うどんにしますかね?」
ぼくは老婆の顔をまじまじと見つめるのだけれど、老婆は表情一つ変えることもない。ああ、やられたなという思いがぼくの頭を過る。コーヒー・うどんという選択肢のあまりのストイックさに言葉も出ない。
人生には数々の選択肢が出現するけれど、ある意味ここまで現実的でしかもどこかオプティミスティックともいえる選択肢には、そう出会えるものではない。
これではまるで、街で角を曲がって突然現われた見知らぬ人から「私と結婚しますか? しませんか?」と訊ねられているようなものだ。
もちろん現実的に答えはノーと決まっているのだけれど、そういう日頃、思ってもいないようなことを具体的に提示されると人というのは案外混乱してしまうものなのだ。少なくともぼくは、即答できない気がする。
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そのときは別段コーヒーを飲みたかったわけでもなく、どちらかといえば資料整理をする場所代ぐらいのつもりでコーヒーを注文するところだったのだ。
そこに突然、思っても見なかった“うどん”という選択肢が提示される。すると、喫茶店でうどんはないだろうという理性とは裏腹に、うどんの存在を無視できないもうひとりの自分が湧き上がってくる。
今ここで、ぼくがうどんを注文することによって起こる変化というものを確かめてみたくもなる。
それは喫茶店だからといって侮れないくらいのファンタスティックなうどん体験かもしれないし、泣きたくなるような侘しさとともに場違いな場所で独り麺を啜ることになるのかもしれない。
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いずれにしても、老婆がうどんという選択肢を提示する以前と今とでは、明らかにぼくの中で何かが変わってしまっている。それは動かしがたい事実だ。残酷なうどんのテーゼ。
形而下において、突然現われた見知らぬ人と結婚するのはほとんどありえないことだけれど、実際にはどんなに思っても見なかったことであっても、それが提示された後では100%否定することはできないのだ。
そのテーゼは、本質的には何も変わらないけれど、極めて個人的な、ささやかといってもいくらいの変化をぼくにもたらす。
喫茶店からの帰り道、ぼくは靴に入った小石を気にしながらそんなことを考えて駅へと向かう。
そしてぼくの人生は、そんなさざなみのような変化に揺さぶられ続けている。
※昔のnoteのリライト再放送です