靴底だけ置いていく
「あいつ、靴底だけ置いていったんだよ」
すれ違った、どこかの知らないリーマン二人連れの会話が不意打ちだった。
「やつは、そういうとこあるからな」
片方が同意しながら、あるあるという顔をしている。
――靴底だけ置いていく?
なんだか唐突に口の中に「おでんのちくわ」でも突っ込まれた気分になる。訳がわからない。
どこかのオフィスなのか、路上なのかに置いていかれた靴底の様子が浮かぶ。
けど、どういう状況なんだろうか。そもそも靴底だけ置いていかれたら、その人は靴底のない靴で歩き出すことになる。
さすがにそれはないんじゃないか。いくらなんでも違和感ありすぎるだろう。
靴底のない靴で歩く気持ちと感覚を想像してみるのだけど、想像するだけですごい欠落感がある。それなら最初から裸足のほうがまだいいんじゃないか。
*
もしかしたら、それは高度な比喩かメタファーとしての「靴底だけ置いていった」なのかもしれない。それならありそうだ。
靴底はたぶん「抜けると困るもの」だ。
抜けると困るものをうっかりなのか、作為的なのかリーマンたちの同僚か知り合いの「あいつ」は置いていったのだ。
抜けると困るものはいっぱいある。お風呂の栓もそうだし、コーヒーカップの底も困る。スマホの画面だって抜け落ちてフレームだけになったのを知らずに持ち歩いてるのに気づいたら「世界が抜け落ちた」気分になると思う。
けど、案外抜け落ちて「置いていって」も、実はなんともないものもあるのかもしれない。
何かが抜け落ちたり、なくすことでしか見えてこない世界もある。
「あいつ」にとっての靴底もきっとそうだったんだろう。