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落下する糸電話

朝、起きるとスマートフォンから糸が伸びていた。最初は糸の切れ端みたいなのがくっ付いたのかと思った。

摘んでみたけれど取れない。というよりスマホを持ち上げると、コネクタからスマホの裏側に回り込むように隠れていた10センチぐらいの糸がだらんと出てきて「ああ」と思った。

たまに聞いたことがある。スマホから糸が出てくる現象だ。

糸が伸びてもスマホの機能に支障はないというのがキャリアの公式見解だけど、ユーザーの中には通信速度が不安定になるとか、音楽アプリで何を聴いてもバッハの旋律になるとかいろんな症状が出ることもあるらしい。よくわからない。

どうしたものかとぼんやり考えてるところに緑のアイコンが浮かび出て電話が鳴った。出張で地方に行っている妻からだ。

電話に出ると案件が順調に片付いたので予定より1日早く帰れそうだと言う。何か変わったことあった? と聞かれて、スマホから糸が――と言いそうになってやっぱりやめた。

そっちは? と逆に僕が聞くと妻は「とくにはないけど」と言う。何かあるけれどべつにどっちでもいいというときの言い方だった。

「携帯なかなか繋がらなかったけど、いまは繋がったし」

妻が言った。やっぱり、糸が伸びたせいで繋がりにくくなったのかもしれない。

電話を切ったあと、相変わらずだらんとぶらさがっている糸を指先でくるくると巻き取りながら、どうしようかと考える。

と、糸が震えた。規則的な振動が糸から指先に絡まるように伝わってくる。スマホの画面は真っ黒に沈黙したままだ。きっと着信を知らせているのだろう。

スマホを操作しても何の反応もない。仕方がないので、糸をつまんで引っ張りあげるようにして部屋の窓側に移動する。

「――さっ…き言い…それより……音声案内に従って…忘れたん……だ…その件でしたら……けど」


糸を伝ってくるようにごわごわと混線した音声が届く。窓の外に目をやると、街中に蜘蛛の巣のように張り巡らされた無数の糸が震えている。

いつも間にこんなに糸が。

僕は窓を開け、近くの糸に手を伸ばす。

手を触れた瞬間、ぱつん、という音がして空中で震えていた無数の糸が一斉に弱弱しく落下していき、そのあとには風の音ひとつしない時間だけが取り残された。

すっかり何も反応しなくなったスマホを眺めながら、僕は妻の帰りを待ち続けている。


※昔のnoteのリライト再放送です