見出し画像

「独りであること、未熟であること」

TVをつけたら、たまたまドラマの再放送をしていた。
有名な学園ドラマだ。
中学生の息子に部活引退後の野球継続を禁じ、野球の道具すら全て勝手に捨ててしまったという父親が出てきた。
息子はそれ以来部屋から出てこなくなり、父親は息子の変わりように自分のしでかした過ちに気づき、なんとか対話をしようとする。
が、メールにすら1度も返事はこない。
息子のクラスメイトたちを前に、教師に促され教室で、父親はそう打ち明けていた。
「自分は高卒で苦労したので息子には同じ思いをさせたくなく、どうしてもいい大学に入らせたいという気持ちからだった」とその心情を告白した。

シーンの途中で、私はチャンネルを変えた。

大人になったら、成熟ののちに、それ故に柔らかな心を忘れて見失ってしまうのだと思っていた。
中学生の子を持つ今、あの父親の顔に、昔の同級生の顔や、職場で出会う人々の顔が重なる。
それはかつての若者たち。
同じことをするかしないか、例えしないとしても、あの父親と自分との違いはとても曖昧だと思った。
地続きのグラデーション。
間違ってしまう経路は、目の前で、いくつも道を伸ばしている。
さもメインロードのような顔をして。

結局年齢を重ねても、人は未熟なままだ。
かつては青年だったあの父親も、未熟なまま立っていた。
正しい答えを引き出せるとも限らず、間違いつつ、そんな未熟な存在のまま、生きてる。
私も同じだ。

「独りであること、未熟であること、それが私の二十歳の原点」
これは、大昔に読んだ、高野悦子著「二十歳の原点」に書いてあったことだ。
彼女は二十歳で鉄道自死を遂げた。
この文庫本を読んだのは、私も二十代の頃。
たしか古本屋で手に入れた。
「独りであること」
「未熟であること」
それを原点として承知できる二十歳は、そう多くはいないだろう。それを承知していても、人は自ら死を選んでしまうものなのかと、そういう衝撃があった。

むしろ承知していたからこそ生を繋げなかったのではないかと思ったこともかつてはあったが、「独りであること」「未熟であること」とは、若者のみならず、人間というものの原点であるような気がしている今日この頃である。

自分の未熟な過ちと、あの父親はその後どう向き合ったのだろう。
変えてしまったチャンネルの先に紡がれた物語を、想像したりしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?