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モノクロの世界に色がつく瞬間

土を耕し、種をまき、水をやり、芽が出る。

世界はずっとそうやってまわってる。

畑をつくった人はきっと誰かが種をまいてくれるだろうと信じて。

種をまく人はきっと誰かが水をやってくれると信じて。

それらはみんな、いつか芽が出ると信じてる。

芽が出ることを信じて種をまき、水をやり続ける。
もちろん吹雪の日もあるし、炎天下の日もある。 

芽が出る保証もないし、何年先かもわからないし、生きてるうちに見ることができないかも。

それでも種をまいて、水をやり続ける。
そんな役割の人が存在してる。
どんな世界にも存在してる。

もちろん、見てるだけの人。
芽を踏んじゃう人。
サッと収穫しちゃう人。
除草剤をまく人。

種をまく人ばかりではないということ。

種はまけないし、水のやり方もわからないけど、太陽になる人もいる。

1人ではできないこと。

そうやって世界が作られてることを時々感じて、時々思い出す。

何気なく生きてるんだけど、踏みにじるような人間にはなりたくないと心底思う。

種はまけなくても、種をまきたい友人の力にはなりたいと思うし、水を一緒に運ぶことはできるし、雨の日に傘をさすこともできる。
結果それが世界をうまく回してたりする。

種をまく人がいるのが前提だけど。

いつの世も、なぜか種をまく人がいなくなることはない。なぜ種をまき続けるのか、何が原動力になってるのかはそれぞれ違うだろうけど。

世界は複雑に見えてるだけで、とてもシンプルな作りだとも思う。

シンプルに生きる方が難しい時もあるのだけど。

私が種をまくとしたら、きっと種をまく季節を間違えてたり、肥料をあげすぎたりして枯らしちゃう。
たくさんの助けが必要そうだな〜...なんて思う。

きっとそういう助け合いを【愛】と呼ぶんだけど、
モノクロの世界に色がつく瞬間だと思う。

【モノクロの世界に色がつく瞬間】と書いて【愛】と読んでもいい。

その逆でもいいけど。

でもよく考えると、世界は元々色付いてるのかも。何かがモノクロに見せてるだけなのかもしれない。もしそうだとしたら、世界は最初から愛で溢れているのか。溺れるがゆえに盲目となり、世界はモノクロになってしまったのか?


せめてセピアがいいなあ(?)


【愛】に変わる言葉はたくさんあると思う。
あまり好きではない。【愛】というストレートな表現が。人が使うには何も感じないけど、私は使いたくない。 

小っ恥ずかしさもあるし、壮大すぎてその言葉を言えるほど立派な人間ではないし、その言葉をもらえるほど愛されてる人間でもない。

※これが自己肯定感底辺の末路である


【愛】と書いて【ハッピーターンの粉】と読むくらいが私にはちょうどいい。

【あなたは愛のある人ね】を言い換えると、
【あなたはハッピーターンの粉のような人ね】
ということになる。なかなかいいと思うのだけど。頷ける人はどれくらいいるだろうか?

noteを書き始めて、褒められることが多い。
読みやすいとか、表現力があるとか、面白いとか。

私は基本的に活字を読まない。
新聞、雑誌、小説。
学校の教科書も。

文字を書くのも極度のストレスで、学校のノートを持っていなかった。書くつもりがないから。

ここまで文字が苦手って、なんかの病気なのかな?と思ったりもする。

だからnoteを褒められることにびっくりしてる。
独り言のように脱線しながら書いてるだけのつもりだから。

わざわざ私のnoteを読んでくれてる人は、ふみちゃん好きレベル70とかだと思うよ。

あなた達はハッピーターンの粉のような人達だよ。ほんと。 





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