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「喪失の響き」 キラン・デサイ

谷崎由依 訳  ハヤカワepiブックプラネット  早川書房

罅裂

 これまでに、成就が喪失よりも強く感じられたことはあっただろうか? 愛とはきっと、充足にではなく、願望と成就とのあいだの罅裂に、つまり欠落にこそ存在する。サイはロマンティックにもそう結論した。
(p9)


(「罅裂」を「きれつ」と読ませている。「罅」を「き」の読みで漢字源(漢字辞典)で引いても、「きれつ」で検索しても出てこなく、類語で「ひび」があってそこにこの漢字があった。普段は使わない読みでなおかつ漢字自体も難しい…でも「ひび」ならどこかで見た気も…)
…「罅」で長くなった…

実際、ここ引いて言いたかったのは、この作品のテーマだと思われる「喪失」のテーマがここで示される、ということ。なかなか魅力的な定義であると思うけれど、物語の最初だし、16歳だし、「ロマンティックにも」とも言われているし、これがどう変化するのかが読みどころなのか。
物語のスピードは早く、というか短い章、そして章内でも場面が次々入れ替わって、じっくりその光景を味わうというより、想起による破片を次々楽しむという感じ。映画的手法とも言えるが、作品冒頭から世界を規定する霧の味わいとも言える。というわけで、作品世界の主要な、インド・カリンポン郊外の判事の家(ここに16歳のサイがいる)、料理人の息子のいるニューヨーク、サイの両親が行ってそこで亡くなったモスクワ、そして判事(サイの祖父)のイギリス・ケンブリッジ時代の想起…主筋と思われる判事とサイのカリンポンの家には、若いグルカ兵達が襲ってくる。

続いてはその主筋の少し前、両親がモスクワで亡くなったのを受け、サイが修道学校から判事の家に初めて来たところ。

 ああ祖父は、人というよりトカゲに似ていた。
犬は、犬というより人間に近かった。
サイの顔は上下逆さまになってスープスプーンに映っていた。
(p55)


詩的とも言えるし、コミカルとも言える。この二つの共存が作家キラン・デサイの持ち味なのだろう。あと、判事の想起が始まるきっかけになったのが、サイが持ってきたトランクにあった「ストラスネイヴァー号」というケンブリッジに行く時乗った船の名前。随分長く使っているのだな、と少し驚く。

 そして突然、まるで聴覚の秘密の扉が開かれたように、繊細な顎がゆっくりと家を噛み砕き、おが屑にしていく音に気づいた。空気と緊密に結びついて、聞き分けるのは難しかったが、一度探り当ててしまうと途方もなく大きくなった。このような風土では、放置された木材が食い尽くされるには一季節で充分なことを、サイは知ることになるだろう。
(p59)


こちらは詩的な文章。かつ、「放置された木材」というのが、物語に関わる何らかの比喩であることも予想できる。楽しみに読み進めよう。
(2022 03/22)

 真実は、小さい集合において最もよく見出されることに、彼は気づく。たくさんの小さな真実が、寄り集まって巨大で不愉快な嘘になることもある。
(p100)


真実の総和が真実でなくなる。創発特性というか、自己組織化というべきか。
この文のあと、思いついたように書いてある「教養ある弟」についての報告。この後の展開の前振りかもしれない。
(2022 03/23)

 人生はすでに彼女を通り過ぎていた。その年頃の少女にとっては、すべてはあまりにも早く過ぎ去るか、またはまったく何も起こらないか、なのだ。
(p108)


彼女…ここでは、サイの最初の家庭教師であったノニ…の回想。ノニはサイに自分を重ねて見ている。小説のタイトル「喪失の響き」はここにも繋がっているのだろう。
一方、サイにはギヤンというネパール人の若者が家庭教師としてつくことになる。このギヤンとサイというのが、何もしないと喪失になってしまう、進行形の年頃。サイが自分の顔を見て柔らかさに気づくところは、女性作家らしい初々しさ。ギヤンと比べると、たぶんサイがリードしそうだな、と予感させる。
ネパールとベンガル、このカリンポン辺りの情勢も複雑で、この恋らしきものも、作品冒頭の若い兵士が来襲したのも、もっと何か大きなものに飲み込まれていくのだろう(詳しくはまたその時に)。
(2022 03/24)

扉と波


第18章は26ページ、これまでに比べなかなか長い、かつ内容的に前半のクライマックスというところか。ギヤンがサイと判事の家にやってきたところ、雨季の大雨プラス雹で帰れなくなる(こういう展開が若い二人に何を引き起こすのかは想像の通り)…

 インドは縫い目からほどけていっている、とサイは思った。アッサムやナガランド、ミゾラムで、警察が過激派を検挙した。
(p166)


確かに「縫い目」だな。カップの取っ手とか…ほどいたらほとんど何もなくなってしまうとか…

 判事はひどく年を取った気がした。家が崩れるにつれ、心も崩れ、負けていくようだった。ある思いと別のあいだの、堅く閉ざしていた扉が開きつつあった。彼が詩を勉強する学生だった頃から、四十年が経っていた。
(p169-170)


家にガタが来て扉が機能しなくなるように、判事の記憶の通路も開けっ放しになってしまった…という喩えはよくわかるのだが、判事はそもそもなぜそこに扉を厳重にしていたのか、そちらの方が今度は気になる。

判事メモ:1、今語られている判事とサイの家は、カリンポンという、西ベンガル州の北、ダージリンや先程あげた北東州に近いところにあるが、判事の元々の実家は、反対側のグジャラート州にあるようだ。
2、判事はイギリスに法学を勉強しに行ったのではなかったか。確かに法学も勉強しているが、ここで「詩を勉強する学生」と名言されているのは、果たしてこの先どこへつながるのか。

 料理人は、手紙を前にして座っていた。青いインクが波のように打ち寄せて、すべての言葉が消えていた。モンスーンの季節にはよくあることだ。
(p185)


この作品の中で一番好きな言葉候補…
雨のインドの町、そことアメリカの間に横たわる海、その反映たる手紙の波…
この後、第19、20章まで読んで、200ページ目前。
(2022 03/25)

 この交際のおかげで、サイは鏡を見ると、自分が以前にもまして流動的に感じられ、どんなものにでもなれる気がした。変化の、果てしない可能性。
(p204)


ローラとノニの姉妹の家で、猫を抱きながらなんとなく二人とミセス・センの国際情勢話を聞いているサイ。変化の活力は時間の経過とともにどうなる?
(2022 03/26)

忘却と記憶

第26章まで。
ギヤンの家系の兵士としてイギリスの為にビルマからイタリアまで戦いに行っている話、ビジュ(料理人の息子でアメリカで働いている)とインドレストランの経営者の話、ローラ他が話すシッキムやブータンへの巡礼の話、そしてネパール人ゴルカのデモにギヤンも参加する話。
サイとギヤンで食べ方が全く違うことに戸惑う(ギヤンは手づかみ)というのも読んでて驚いた。ビジュのところでは、店主が安く雇用するために食堂の床に使用人達を寝泊まりさせていたが、「鼠はビジュを裏切らなかった」為、使用人達は店主が帰ると皆テーブルの上に寝るというところ。シッキムやブータンの話はこの小説中では珍しく?詩的なところ。そして、最初は距離を置いていたギヤンも、友人達がデモ隊にいたことと、それから自分の家族のこと、特に足を失った伯父のことを思い出してデモに共感していく、物語がまもなく大きく動きそう。

 伯父は、忘却が記憶よりたやすく、子供たちに問われれば問われるほど記憶が霧散するような世代だった。世界じゅうがそうだった。
(p221)


最初の文はまだわかるが、「世界じゅう…」は何を意味しているのか。
次も、同じページの同じ伯父の文章。

 伯父は答えようとしなかった。四週間に一度、彼は郵便局に行き、月七ポンドの年金を受け取った。彼はたいてい車椅子に座り、無表情な顔をヒマワリのように動かし、障害のある者の空虚な執拗さで太陽を追いかけていた。その人生に残された唯一の目標は、太陽の軌道と自分の顔の軌道を一致させることだった。
(p221)


負の方向を持つこういった情景を、肯定的表現に転換して、悲惨さをユーモアで包む…というのは海外文学の手法の一つだと思う。

 そして表に出してみると、憎しみはまったく純粋な、かつてなく純粋なものになっていた。なぜなら過去にあった悲しみはとうに消え去ってしまったから。ただ怒りだけが、抽出され遊離して残っていた。
(p246)


こうして、直接的な悲しみから切り離されたところで暴力が生まれる。ギヤンはサイとの恋を恥ずかしく思い始めていた。
ようやく半分越えたとこ。
(2022 03/27)

冒頭の回収

 そしていまだに、門を出て行くという考えを実行に移せないでいた。門は開いていた。ここを通って出て行きなさいと呼びかけていた-開いた門を見ていると、悲しみでいっぱいになった。
(p261)


ここで判事の妻の話が初めて出てくる(判事の回想)が、この判事と妻の不仲というか絶縁状態は、悲惨さにおいて極限状態ではあるとは思うけど、それでもそこを出ない。出る、という選択肢をとうの昔に捨てて来ている。
一方、現代の筋では、サイとギヤンの喧嘩が始まる。ギヤンはまたゴルカの友達に、サイの家の話、とりわけ銃が複数あって電話はないので孤立している、という情報を話す。ここがおそらく作品冒頭の、兵士が判事の家を襲ったことの大元であるらしい。一方、その冒頭部分でサイがギヤンを待っているという姿に、ギヤンと仲直りしたいという気持ちを添えることができる。

 愛とは堅固なものではない、彫刻などではないのだと。それは揺るぎやすいもの、その時々で自在なかたちに変わり、ギヤンを裏切らせるものだ。事実、愛を型にはめずにはめずにおくことは難しかった。愛はどんな型にもはまるのだ。
(p269)


今日読んだ他の話題。ビジュの話。ビザ取得の難関を乗り越えた(1回目はカトマンドゥの架空の情報を教えられた)話。それから、ビジュの転倒、療養生活。一瞬だけでも、インドに帰ろうか、とビジュは考えている。
(2022 03/28)

鼠とシロアリ、ときどきマット

 黄色くなった紙は、微かに鼻をつく酸っぱい臭いを放ち、モザイクのように簡単に砕け、指のあいだにはほとんど残らない-まるで永遠の塵となる寸前の蛾の羽根だ。
(p301-302)


騒乱がまもなく起きそうなので、その前に図書館へ行って借りてこよう、とダージリンの図書館へと向かう。その時の様子から引用してみた。

次の章は、この図書館がある競技会クラブ食堂での、判事と友人ボースの会話。判事が車を出した最後の機会であり、時系列的にはサイが来る1か月前のこと。
 図書館に保存されているゲストノートには、繊細にバランスの取れた手書き文字で、感受性と良識を伝える虐殺の記録が残されていた。

 だが、鼠を撃ったものはいなかったらしく、判事とボースが会話をするあいだが鼠はマットレスを齧り、辺りを走りまわっていた。
(p310)


「虐殺」とは狩りや釣りのこと。

 人々は彼の与えた告白に飛びつき、鼠のように貪り食うだろう。
(p318)


…どこまでも鼠、シロアリの齧る音が聞こえたという文章も印象的だった…いっそのこと、この小説を誰かの視点で書き直すとしたら、「吾輩は猫である」風に、鼠とシロアリの対話という案はどうだろう。ときどき犬のマットも会話に加わる…とか。
それはともかく、このボースとの会話の後、判事はサイについての修道院学校からの手紙を見る。判事にとって、サイの出現はなんらかの救いであったらしい。
(2022 03/29)

桃色に染まったカンチェンジュンガ


今日のところは、前の競技会クラブ行きの帰りの続き、ここで一行のうちのブーティ神父の滞在許可が切れていることが発覚し、神父は乳牛舎などの事業をタダで取られ送還されることになった。その日の夕方の光景から。

 頭上に山々が落ちかかり、心は半ば空虚、半ば満たされ、ちょうど今この瞬間のような、美と無垢とを求めて。愛されることを切望し、目の前にある世界よりも広い世界、あるいは幾つもの世界を切望している彼らの考えていることを。
(p342)


「裸体のような桃色に臆面もなく染まったカンチェンジュンガ」という表現といい、何かが起こり始まる一夜前の静けさ、という感じがする。一方同行したサイは、ゴルカ兵行進の中にギヤンの姿を見て、激しく動揺する。
料理人とビジュの筋では、ビジュが故郷の動乱を知ってなんとか手に入れた電話番号で(ゲストハウスを通して)電話してくる。その電話と料理人も周りのゲストハウスの人々がそれぞれに動いたり喋ったりで楽しい。料理人自身はそれどころではないけれど。

 結局のところ、注がれた愛情は習慣にしかすぎず、人々は忘れ、不在にも慣れていく。そして久しぶりに帰ってみると、残されているのは玄関のファサードだけだったりする。家は内部から食い尽くされてしまっているのだ。シロアリに蝕まれているチョーオユーと同じように。
(p357)


チョーオユーというのは判事の家の場所。タイトルの「喪失」が直接的に書かれるようになってきた。
(2022 03/30)

ギヤンとサイ、続き

 歴史や機会が人々に与えるひとつひとつすべての矛盾、人々が相続することになっていて、そして望んでいるすべての矛盾。だがもちろん、それと同じくらい、純粋さも求めているのだ。
(p397)


ここはギヤンの家(貧しい集落内にある、家族はギヤンに全てを集中し、他は一時保留しているのだ)を訪れたサイと、ギヤンの口喧嘩。家を見られたギヤンも怒るが、サイも自分自身より自分の怒る役割の方に引っ張られて怒りをぶちまける。でもそんな時にもちょっとの台詞で笑みが溢れることもある。この文章の箇所はそんなところ…矛盾と純粋さに引き裂かれているという意味だろうか。今は自分の理解を超えていると思う文章。
銃を盗んだという濡れ衣で拷問され失明した男とその妻の嘆願に、判事は耳を貸さない…彼らには物語もこのまま素通りしてしまうのか…やっと400ページ越え。
(2022 03/31)

安らぎの隠し方


今日のところは、ギヤンが家に閉じ込められ、ビジュがアメリカから帰ってこようとする。そこでグルカ勢力に呼ばれてデモ行進をしていた人々と警察とが騒乱状態となり、双方とも逃げ出す。参加していた料理人もからがら家に帰ると、前に拷問を受けた男の夫妻がまた嘆願していた。判事は無慈悲にも帰させるが、次に彼らが来た時は、犬のマットを連れ去ってしまう。判事は探し歩くが、周りの人々は誰も相手にしない…

 いったいどれだけの人間が、自分の国の文化のまがいものの表現、または他人の国のまがいものの表現をして生きていることだろう。彼らにとっても生活は、ビジュにとってビジュの生活が非現実なのと同じくらい、非現実的なのだろうか?
(p409)


生活が非現実…そんなことがあるのか…あるよな、朝目覚め直前に見ていた夢の方が現実的に思えてくる。

 臆病さを人生の基本として認めるには、建前や理由付けが必要だ。安らぎを保つのは容易ではない。安らぎは抜け目なく隠し、何か別なものに見せかけておかねばならないのだ。
(p417)


ここなど、純粋な語りを越えて、作者が自身の考えを吐露していると思う箇所なのだが…
(2022 04/01)

再会?


まずは、ビジュが「各駅停車」のガルフ・エアの飛行機に乗って、カルカッタに到着した時の目に見えるような光景の描写から。

 ビジュは空港から出て、カルカッタの夜に足を踏み出したよ暖かく乳の匂いのする夜だった。足許には柔らかな埃が吹き付けていて、何か耐え難いような、悲しく優しい、赤ん坊の頃母の膝で眠りに落ちた記憶のように古く、甘い記憶がよみがえってきた。もう十一時をまわろうというのに、数千人もの人々が外を歩いていた。
(p457-458)


(関係ないけど、このカルカッタ空港のところで書いてあった、外国人及び在外インド人のみロストバゲージの補償に対応し、国内のインド人には補償しないというのは、本当にあったことなのだろうか)

 灰にはまるで重さがなく、何の秘密も語らず、罪の重さに較べたらあまりに軽く空へ昇った。重力などないみたいに軽く、上方へ漂い、ありがたいことに消滅した。
 過去を検証する余裕などなかったからだ。彼らは持てるすべてを賭けて、未来を摑まねばならなかった。
(p469)


これは判事の妻(サイの祖母)ニミの最後の場面から。実際?はどうだったのか明らかにされないが、「事故死」扱いされたニミの死。これを知らせる電報が、判事のところに着いた。その次に着いた電報がサイの到着を知らせる電報。判事にとってサイの到着は何を意味していたのか、或いはしていなかったのか。

 物語はただひとつだけで、それは彼女だけの物語だなどとは二度と思えないだろう。小さな幸せを作り上げ、そこに閉じこもって安全に暮らせるなどとは二度と思えないことだろう。
(p493)


「喪失」したのは、まさにこの感覚なのか。でも、それでまた得るものもある。それは他人の物語を身に受けること。

物語は、ビジュと父の料理人の再会で幕を閉じる。その直前に、ギヤンと(いなくなっていた)犬のマットがともに見えた場面も書いてある。が、少しぼやかしめで書いてあるから、実際には会っていなかったという読み方もできる終わり方。読んだ感覚からすれば、ビジュは現実で、ギヤンとマットは幻だった…というのに落ち着きそうだが。

一方、今日読んだ50ページの最後のところで、判事はニミと料理人、二人を殴りつけている…批判するのは簡単だけど、その力の根源を元から見つめなければならないだろう。そしてそれが、作者にこの作品を書かせた理由でもあるのだろう。
ということで、読み終わり。500ページ近くは長かったけれど、なんとか今週中、4月少しはみ出すくらいで読み終えられた。
(何気に、インドの小説読んだの初めて)
(2022 04/02)

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