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「東インド会社とアジアの海賊」 

東洋文庫 編  勉誠出版

六義園の向かいにある東洋文庫ミュージアムへ。このどちらも岩崎家の所有で、元々は六義園内に東洋文庫もあったという。ミュージアムショップで、本2冊、「東インド会社とアジアの海賊」と「記録された記憶 東洋文庫の書物からひもとく世界の歴史」を買って帰った。
(2015 06/28)

海賊という捉え方

今日はこの間東洋文庫ミュージアムで購入した東インド会社の本を読んだ。1、2章。
鎖国直前に海賊と思われていたのはオランダ東インド会社の方で、彼らのヨーロッパでは私掠としてグローティウス等に認められていた行為も、まだアジアでは普遍的価値を確立していなかった、という第1章。
ホルムズ海峡付近で、イギリス東インド会社側が海賊としての対象を、徐々に対立し当時のワッハーブ派に属していたカシーム派(家)に狭めていった、という第2章。
海賊とされた側より、海賊を認知規定していく側の方に重点を置く。
(2015 07/10)

マレー世界の経済圏と海賊


東インド会社と海賊(並行であったり同値であったりする…この2つのキーワード)の本、第2章はマレー世界。取り上げられている主な時代は1780年代~1820年代。オランダ東インド会社が現地勢力ジョホール王国の交易都市リアウ制圧から、シンガポール建設まで。

マレー社会の法整備は商業の面では進んでいたが、権力者の後継ルールが明文化されていなかった。ので、様々に争い敗れた者も少し離れた場所で再起を図る(これにはこの地域の人口密度の低さも影響している)、その図り方の一つが海賊行為。また商人も武装していて、要するにこの地域は海賊(と今から規定できる行為)を取り込んだ経済圏を持っていた。そこにオランダ東インド会社という、なんだかこれも海賊ともつかないような勢力が現れ、この地域をある程度制圧し、しかし先に挙げた時期は、ちょうど中国清朝で乾隆帝の安定期を迎え、「中間階層」の贅沢品消費量が増加し燕の巣とか海鼠とか錫とかもろもろが中国へと輸出された。この手の商品はかなり人手がいることから、奴隷の狩りと売買も活発に(もともとこの地域も奴隷社会だった)。この流れにオランダ東インド会社はやがて取り残され…ということらしい。

次の章もマレー社会の話。
(2015 07/11)

マレーから中国へ


東インド会社と海賊の本は第3、4章。マレー世界と中国。
第3章は第2章の続きで、1830年代くらいにまた海賊行為が頻発するが、イギリスやオランダがやがて現地勢力を取り込んでいく様子。
第4章は16世紀の後期倭寇。中国人、日本人はもとより、ポルトガル人、アフリカ人も巻き込んだ海賊軍団。中国沿岸の拠点が明軍に潰されると、また別の拠点(平戸・五島・薩摩含む)に移る。大友氏が遣明船を送っていたらしい。
(2015 07/13)

東インド会社と海賊の本は第5章。今度は17世紀前半の東インド会社に軍人となって中国沿岸に来ていた男の報告から。自分達が被害にあうと相手を海賊だと決めつけるのに、自分達が同じことしても手柄になる…という構造は、現代にも多く…
(2015 07/14)

屏風絵から見る東シナ海情勢


東インド会社と海賊の本の第6章は標題の前半部分。
長崎を描いた屏風絵から。明→清、鄭氏政権とオランダ東インド会社との対立、江戸幕府のバテレン対策など相まって、以降期の騒然とした情勢だった17世紀。唐船もオランダ船から攻撃受けないように、琉球使節や東南アジアから来る船もオランダ旗を掲げていたという。そうした旗合わせやまだ唐人屋敷に閉じ込められていない時期の中国人の様子などが、この屏風絵には描かれている。
(2015 07/15)

中国海賊イメージ生成と海賊の終焉


という2つの章で、昨夜東インド会社と海賊の本を読み終えた。
前者は元々はイギリスのマカオ制圧の口実の為に送った資料が、後々に中国海賊→女海賊の頭目というイメージを作り上げた、という話。
後者は宋や明より「小さな政府」だった清が海賊討伐をイギリスなどの外国勢力に任せたこと(後に海軍の改革も少しはなされた)の話。
海賊・商人・漁民・海軍…境界線は予想以上に曖昧かつ主観によるところが大きい…
(2015 07/16)

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