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「大航海時代の日本人奴隷-アジア・新大陸・ヨーロッパ」 ルシオ・デ・ソウザ 岡美穂子

中公叢書  中央公論新社

元々はソウザ氏の著作で、この中公叢書はおおよそその第1、2章に当たる。それを日本の読者にもわかりやすく書き改めたのがこの叢書。ソウザ氏の妻でもある岡美穂子氏、そしてポルトガル語翻訳者である吉田氏の三者合同作業とでも言えよう。で、元々の本の残り部分も吉田氏が翻訳済みだという。自分が読んだ後に、イエズス会関連を追加した新版が出ている。

大航海時代の奴隷貿易とは

パラパラ読みしたところ戦国時代ー大航海時代にはアフリカ人だけでなく日本人始めとするアジア人も多く奴隷として取引されていた。ただポルトガル王やインド領主などが公式には禁止していたため、なかなか記録には残っていなく、存在も知られていない。それでも中南米などでは研究が進んでいる。

一方日本では藤木久志氏の人間狩りの著作(自分が読んだのは「中世民衆の世界ー村の生活と掟」岩波新書)など、これなどアフリカ奴隷貿易と構造ほとんど変わらないではないか…前に読んだ戦国時代の交易のちくま文庫(村井章介「世界史のなかの戦国日本」)とも合わせて(あとは少しだけ読んだ、フアン・ヒル「イダルゴとサムライ 16・17世紀のイスパニアと日本」叢書ウニベルシタス)かな。

コンベルソ商人と日本人奴隷の若者


序章まで読んだ。先にも述べたように、元々の著作の一部だから、序章だけで1/3くらい進んでる。

具体的例として取り上げられている日本人奴隷ガスパール。豊後の生まれだという彼を長崎のペレスに売った(奉公させた)までの経緯がよくわからない。一方、ペレスの方はヴィセウ出身の新キリスト教徒(コンベルソ)。時代的にはずれるかもしれないけど、元々ポルトガル出身であるスピノザ一家とほぼ同じ。
これからの行動見るかぎり、このペレス氏はコンベルソといえども結構ユダヤ的生活様式を守っていた人物らしい。妻を置いて息子二人とポルトガルを離れ、ゴアーコチンーマラッカ ーマカオー長崎ーフィリピンと逃避しながら商売を続け、マニラで捕まってメキシコアカプルコへ護送されている最中に亡くなった。

ガスパールと他二人の日本人奴隷(他の二人はフィリピンでの奴隷)、インドで仕えたベンガル人奴隷がメキシコへ。日本人奴隷は元々は年季奉公契約だったのをこの時奴隷契約に(半ば故意的に)変えられた。そこでガスパールは訴訟を起こすのだが、見受けしたのが、この時にはメキシコで商売してたペレスの二人の息子。この息子達は結局見受け時には現れなかったのだが、これでガスパール達は自由になった(そこから先のことは不明)。

あと、メキシコでペレスの息子達を訴えた日本人奴隷がいて、その調査のためマカオ経由で長崎で取り調べがあったそうで、ペレス一家の長崎滞在の様子はその調書で詳細なものとなる。金曜日夜から土曜日の肉を断つ時にペレスは肉を食べていたとか(高齢であることを理由に司祭から許可を得ていた)、最初の家では貸主のキリシタン夫妻と衝突があった(この夫妻は救貧院を設立するなど熱心な信者)とか、こういうキリシタン信者が割とこういうコンベルソに対する告発をしていたとか。

一方、ペレスの方はマニラで砕いた十字架と骨を混ぜて二十六聖人のものだとして売っていたという。こういう聖遺物の偽造はフィリピンで加わった朝鮮人奴隷の仕事だったという。この他もっと前の時期にはジャワ人やカンボジア人なども奴隷(多くは子供)としていたという。ペレスは他の人とは違い奴隷に暴力などはふるわなかったという。
(2020 06/28)

マカオ編


海外に出た日本人がまずたどり着くのがマカオ。男性は港湾作業や傭兵など、女性は家事労働等。マニラでもマカオでも日本人傭兵が暴動を起こして、マカオのそれはマカオ事件(1608年)となり、明への表向きには奴隷がいないということになっていたマカオのポルトガル当局が困惑する。マカオには他にもモザンビーク周辺出身の奴隷もいて、彼らが自由身分となり、そして日本人奴隷を雇うということもあったらしい。
(2020 06/29)

マニラ編


マニラに通商船が来る前の2箇所の拠点のあと、1580年代から1615年くらいまで、二十六聖人迫害の時一旦途切れたものの、フィリピンのスペイン勢力と日本の通商に伴い日本人達も多数住んでいた。その中に高山右近もいる。
スペイン当局に反乱する勢力の鎮圧に加わったものの逆に反乱に転じてみたり、これらの日本人は時には傭兵として、スペインの敵であるオランダ側や、カンボジアまで遠征したこともあるという。
(2020 06/30)

ゴア編


1548年、ザビエルと出会って彼に日本行きを決めさせたアンジローより前にも日本人がいた可能性有り。遺言で妹に日本人奴隷を多数贈ったという事例や、ポルトガル人から逃亡した日本人奴隷がイスラームへの改宗を企てたが、連れ戻され異端尋問で許されたという事例。
一方ポルトガル国王から日本人を奴隷にすることを禁ずる命令が出たのだが、それを阻止しようと「ポルトガル人一人に対して7、8人の日本人奴隷、しかも鉄砲とか持ってる」と進言していた。禁令が出ても、それ以前に所有していた奴隷はそのまま。新たな奴隷契約はできないが、抜け道作って奴隷労働をさせたり、拷問したり。
(2020 07/01)

メキシコ編


記録に確実に残るメキシコ内の日本人は1590年代。この頃、マニラとアカプルコを結ぶ航路が整い、また次の世紀の支倉常長の慶長遣欧使節団に付随してきた日本人の系譜。そして、最後の頃に、もう日本人の海外渡航が禁じられた時期に内密にスペイン使節の船に乗った数多くの日本人。日本に帰る可能性がないのを知って船に乗った彼らの胸中は…
(2020 07/15)

ペルー(リマ)とアルゼンチン編


17世紀初頭のリマの世帯調査で元々の「インディオ」の他に「インディオ・オリエンタル」アジア地域出身で連れてこられた者が110人ほど、そのうち日本人は20人ほど。中には店を構え、他の奴隷を解放するような日本人もいたが、彼らも奴隷としていた時期があったと思われる。一方、逃亡などして「烙印」を押された者たちも多い。烙印は逃亡奴隷の他、所有者を明確にする為の理由もある。
(2020 07/16)

アルゼンチンの日本人奴隷は、当時ポトシ銀山に奴隷を供給していたコルドバで確認できる。

ポルトガル編

ヨーロッパ編になって第1章はポルトガル。ソウザ氏のとこだけあって、文量もやや多め。
16世紀後半には既に国王から日本人の奴隷禁止令が出ていたのにも関わらず、確認できる例もある…(リスボンでは1580年代に大地震が起こって史料が残っていないことが多い中で)。解放奴隷間での信心会もあって、最初は黒人のためのものであって、そこにアフリカ系黒人は元より、中東からインド人(ここに日本人や中国人も含まれる)も雑多に入っていて、そこでは黒人指導でアジア人は下とされていた、という。後にアジア人の信心会もできた。
(2020 07/25)

日本人やアフリカ系、アジア系など、元解放奴隷の結婚証人をやりあっているグループみたいなものがあった。あと、解放奴隷と言っても、何十年も働かせたのちの厄介払いという側面がある場合も多かった。

スペイン編

支倉常長使節の滝野嘉兵衛なる人物が、奴隷の烙印を押されて国に訴えた。そして日本に向けて旅立ったが、1624年のマニラからの船を禁じる政策で戻ることは出来なかったと想定している。これらの人々の子孫がセビージャ近郊に住むハポン姓とのこと。
奴隷貿易を禁止した国家に溶け込むのと同時に、奴隷貿易にも積極的に関与している、イエズス会…この詳しい記述は先に述べた通り、原著の続きで論じられている。というわけで、この本自体は読み終わり。
(2020 07/27)

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