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「ビザンツ歴史紀行」 今谷明

書籍工房早山

ラヴェンナ

402年西ローマ帝国首都→467年オドアケル王国首都→493年東ゴート帝国首都→540年東ローマ帝国総督所在地ラヴェンナは当時は海岸に面した軍事都市だったらしい。西ローマ、東ゴート、東ローマとそれぞれの遺構が残っているという。

今谷氏は日本中世史家。著者今谷氏の日本中世史は、天皇家が巷で言われるほど無力ではなく、一定の力を保持していたという主張に特色がある、という。

ちら読みした時に、ヴェネツィアと中世の近江瀬田付近の商人組織(水上家屋群を作ったという)の比較があって面白いと思ったのだが、ここでもオドアケルが平清盛、テオドリックが源頼朝、他に摂政の北条氏と中世史との比較をしている。これは単に似ているからだけでなく、背後にある封建制というものを睨んでいるため。封建制はそれ以前の統治形態があって初めて機能するのだそう。

あと、今谷氏のイタリア篇は、和辻哲郎の1920年代の旅を参考にしながら。和辻哲郎はラヴェンナのあとヴェネツィアに行く途中でマラリアにかかったのだそうだ。
(2020 07/26)

ヴェネツィアとビザンツ

今谷明氏の「ビザンツ歴史紀行」。ヴェネツィア篇。ヴェネツィアとビザンツってなんか違う気がするのだけれど、実はヴェネツィア都市建設時はビザンツの一員という位置づけだったらしい。それからアラブ水軍を破ったこととかで、だんだん実力をつけ始めていく。ビザンツとの勢力が逆転するのが、第四次十字軍(ラテン帝国がコンスタンティノープルを陥落させた)の時。
(2020 07/31)

ヴェネツィアとそこを訪れる者たち

侵攻者を避け潜むためから、海岸の沼沢地に常駐化し、魚や塩田で財を成して、対岸のイストラ半島から木材や石材を投入しヴェネツィアの都市の土台を作った。

828年、アッバース朝治下のエジプトから聖マルコの遺骸を盗掘し持ち帰った(ムスリムの嫌悪する豚肉でくるんだという…この様子がティントレットの絵画に描かれていて聖マルコ寺院にある…が、今谷氏はティントレットがお気に召さない様子…先行和辻氏は激賞しているが)…その辺からビザンツ帝国からの自立(ギリシャの聖人から守護聖人を聖マルコに変える)が見られるが、建築そして海軍力、技術はビザンツ帝国の継承者であった。

それを見るためにアルセナーレに向かうが午後すぐに閉館していて入れなかった。これはもう一人の先行者林達夫氏と期しくも同じ。一方ゲーテはここで親方について回り船の上に登ったという記述が「イタリア紀行」にはある。

最後に17世紀の建築、聖マリア=デッラ=サルーテ教会を。今谷氏はヴェネツィアの教会建築で一番だとしている。

…さて、この今谷氏のヴェネツィア紀行。さすがにいろいろ内部を見学はしているが、マクドナルドへ寄ったりお土産物屋冷やかしたり、ほとんど観光客(?)…
(2020 08/01)

ギリシャ、アトス山篇

ウィーンの道元の思想が専門の教授の紹介(というかコネ?)で、正規のテサロニキ事務所とかの手続きを飛ばして、カナダのK教授とともに行ったアトス山修道院2泊の旅。滞在した先のウィーンの教授の友人でもある副修道院長(バーゼル大学で東アジアキリスト教受容史を研究してた)が出迎える。

アトス山は女人禁制なのは元より動物の雌まで入れないという(どうやって?)。9世紀中頃、その頃盛んだった聖像破壊運動から逃れて修道士がこの山域にやってきた。当時はクレタ島にアラブ勢力があって海賊活動を行い安全とはいえなかったが、10-11世紀のバシレオス2世でのビザンツ帝国全盛期、クレタ島のアラブ勢力を駆逐し、次第に皇帝の認可を得、山域外の荘園での農産物や酒作り、専用船使っての交易など力をつけてくる。
日本中世史が専門の今谷氏にはこうした動きが、日本中世にも見られた(他に公家の隠遁場所になるとか)のが気になるよう。

晩の祈り。時間を告げる叩く板。ビザンツでは十二世紀まで鐘ではなくこの形式が取られた。アトス山では持ち運ぶ板で、日本の禅宗寺院の魚板は一定場所に吊るされて。
乳香の香炉を振り回し白い煙を立ち込めさせる。乳香はユダヤ教、旧教、正教、イスラム教で使われ、新教では用いられない(著者今谷氏は新教(同志社))という。「秘境アラビア探検史(上)」(キールナン著 岩永博訳 法政大学出版局)の記述が紹介されており、それによると、乳香はアラビア半島南部ハドラマウトというところで採取する樹脂なのだという。

今谷氏は、原勝郎「日本中世史」を繙きつつ就寝する…

 古代奴隷制から中世農奴制(封建制)へと発展したという図式は嘘である。そうではなく、蛮族侵冦によるまったくの荒廃、廃墟の内から、ビザンツの人びとは中世封建制という時代を新たにつくり上げていったのであろう。
(p122)

ビザンツ帝国衰退後は、ブルガリア、セルビア、ワラキアなどの各スラブ諸国の寄進があり、ビザンツを滅ぼしたオスマン朝も、税さえ納めれば半島外の荘園は没収したものの自治を認め、モスクワなどの寄進も続いた。一番痛手だったのが1944年のブルガリア解放に際しての共産主義者流入だったという。

部屋は電気こそなくランプの灯であったが、改装したばかりらしくアテネのホテルよりよかったという。食事も水含めて今谷氏は最高という。アジのフライ?などもあった。
(2020 08/02)

コンスタンティノープルとアンカラ

「ビザンツ歴史紀行」のトルコ篇はコンスタンティノープルの外側城壁に沿って、サライ(宮殿)、ジャミィ、コーラ美術館などを。この辺りは自分が旅してた時はほとんど行けなかったけど、古い寺院とか結構残っているらしい。
(2020 08/03)

イスタンブールで山下氏の案内でモスク(等イスラム建築)化されたビザンツ建築を見る。工藤氏というコンスタンティノープルの専門ガイドには、家を教えてもらいながらも家のベルを押さなかったことで会えず。

一回アンカラへ向かう(行き鉄道、帰り飛行機)。この行きの鉄道がなかなかの渓谷美なんだそうな、昔の山陰本線の保津峡みたいな。
アンカラ城は東方のアラブ勢力の備えで作られた。ビザンツ、イスラムとも都市城壁は地方にはなく、城下町形式なのだという。アンカラにはビザンツ建築としてはあまりないという。

イスタンブールに戻り、先の工藤氏から詳細な案内をFAXでもらう。聖ソフィア寺院の近くのミニ版寺院(これがオスマン朝征服後、正教側に残された寺院)、自分がイスタンブールで訪れた地下宮殿のような地下貯水池(イスラムでは動かない水は不浄とされている為、ほとんど利用されてこなかった)など。
(2020 08/05)

アンデルセンのイスタンブール訪問記(1840年)、オスマン朝下の正教教会(ビザンツ時代の教会はジャミィに変更されて下町の貧しいムスリムに使われていた)訪問。というところで、こうした外国勢力の資金による改修など受けずに下町のビザンツ建築が残っている理由となっている。

古代の官僚制が崩れていき、中世に封建制となった共通点を持つ。日本とビザンツ。封建制という言葉は第二次世界大戦後に何故か悪評が立てられるが、それも再考すべきだと今谷氏。
(2020 08/06)

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